ゼーキン・高杉

帰宅したときには22時を廻る頃だった。毎日数時間の残業は慢性的となっており、俺と同じ部署の人間は個人差はあれど似たような状況だった。明日は土曜日だが顧客のクレーム処理の為9時前には家を出なければならない。
猫背になり、溜息を吐きながら俺は低反発クッションを敷いた椅子にもたれ掛かりPCを点ける。
『きりーつ、きおつけ』
PCから声が発せられる。
その声はPC上に映るアニメの美少女キャラクターのような人物から出たものだ。
なぜ”ような”という単語を使ったかというと、アニメ作品の、脚本通りに喋る、フィクションのキャラクターではなく、自らの意思で言葉を発する、この現実に、確実に”存在る”キャラクターだったからだ。
アニメのような見た目だが、そのキャラクターは現実世界で我々が話しているような他愛もないことを話している。内容は、制作した作品が暗すぎたりエロすぎたりする理由で主催者側から展示を拒否されたという話だった。
友人が楽しそうに話しているのを隣で聞いてる、そんな感覚だった。
以前俺は自問したことがある。「実際の人間とこのキャラクターは違いがあるのか?」
現在、そして今後もこう自答する。「ない」と。
人は他人を見るときどうしても色眼鏡で、記号的に見てしまう。
『暗そう』『性格悪そう』『ゲーム好きそう』『モテてそう』『チャラそう』。
もちろん長い時間をかければ一人の人間として観ることが出来るが、短い期間だったり会う回数が少なければそうはいかない。まして画面上でしか認識できない人物など限られた情報しかないのだから、それは実際の人間であったとしても記号的に見えるキャラクターなのだ。
しかし、世の中を見るとその”キャラクター”に魅力を感じている人はいくらでもいる。現実に存在する”自分”ではない”他者”だから、いや、”キャラクター”だから魅力を感じるのかもしれない。もはやアニメイラストか実際の人間か等些細な違いである。
ゲーム実況をする者。
1円玉を溶かそうとする者。
カビている饅頭を食べる者。
自らの謝罪を他人にやらせる者。
夜中に犬の散歩をしようとしたが恐怖で配信を中断した者。
視聴者から大便を漏らしたエピソードを紹介する者。
俺はそんな”キャラクター”達が好きだった。
眠気を感じそろそろ床に着こうかと思ったが、つい目に入ったサムネイルが気になり、俺はマウスをクリックした。