海界の村を歩く 瀬戸内海 契島 生野島(広島県)/瀬戸内の軍艦島と緑の楽園
Автор: 集落町並みWalker /Walk around Japan
Загружено: 2022-02-11
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Walk around the island village, Seto Inland Sea, Chigiri Island Ikino Island (Hiroshima Prefecture) / Gunkanjima and green paradise in Setouchi
契島
竹原港の南南西約4kmにある小島。島全体が東邦亜鉛(株)契島製錬所の所有地となっている。もとは南北2つの島からなり、島名の由来も2島にちぎれたように見えたからという説がある。享保年間(1716-36)には畑が拓かれており、年貢上納の記録がある。明治32年に全島が買収され、大阪の岩佐鉱業試験所(岩佐巌所長、工学博士)により、南北それぞれの島の山を切り崩し、両島間を埋め立てて銅の製錬所が建設された。以後、昭和20年委かけて堀製錬所、弘益殖産、帝国鉱業開発などによって銅の製錬が営まれた。昭和10年代の昭和鉱業株式会社による操業期には、煙害防止の大煙突が建てられ、従業員は600人を数えている。戦後は同25年に東邦亜鉛株式会社による鉛製錬工場として再出発、自社の対州鉱山(対馬島)などから算出される鉱石を用いて粗鉛と電気鉛の生産が開始された。現在、豪州産鉱石などを用いた鉛地金の生産量は国内最大で、製品は自動車用バッテリーの原料などに使われている。ほかにも銀地金などを生産する。島内は、中央部から南に工場などの建物が密集、北部が従業員の住居区(社宅)となっている。従業員の多くは、竹原などから専用船で通勤しているほか、大崎上島の白水港からも生野島経由の町営フェリーがある。ほぼ全島が社有地のため、許可なく部外者の立ち入りはできない。(「シマダス」参照)
生野島
瀬戸内海に浮かぶ島々のほぼ中央、大崎上島の北約0.4kmにある島。島内からは縄文・弥生時代の磨製石斧や土器、横穴式石室などが発見されており、2,000年前にはすでに人が居住していたという。江戸時代は芸州藩の放牧地とされ、馬島と呼ばれていた。明治期にほとんどが国有地化されている。昭和4年、国有林の一部(13町歩)を借り受ける運動が始まり、同8年には京都の宗教家・足利浄圓が来島して同朋舎を建て、京都からの移住者と大長(大崎上島)の人たちがミカン畑を開墾している。同11年には契島の昭和鉱業が草の浦に社宅80戸を建設、契島から海底送電による電灯を設備し、水道を敷設、同14年、開墾地が国から払い下げられた。戦後の同21年、県営開拓地の指定を受けて8町村から約200人が入植し、柑橘栽培が普及した。同35年には人口279人を数えている。同52年には自然休養村に指定され、関連施設が整備された。現在、有人の集落は福浦と草の浦のみで、月の浦は無人化している。草の浦の北側には、契島を一望できるポイントがある。(「シマダス」参照)
集落町並みWalker
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/...
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