【第4回:夢中問答集を読む】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2025年10月7日(火)
Автор: 公開講座花園大学
Загружено: 2025-10-26
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「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
禅とこころ 夢中問答集に学ぶ 令和七年十月七日 花園大学総長 横田南嶺
講談社学術文庫『夢中問答集』校注・現代語訳 川瀬一馬より引用
外魔と内魔
問。仏法を修行する人が、ともすれば魔道(悪魔の世界)に入ってしまうというのは、どういうわけか。
答。仏道の障害となるものをば、すべてこれを魔業と名づけている。魔業をすれば、必ず魔道に入る。そのことは「大般若経」の魔事品、「楞厳経」、および天台の「摩訶止観」等の中に詳しく説明してある。その文章が長いので、詳しく引用することができないが、ここにその要領をとつて説明すれば、魔に二種ある。内魔と外魔とである。魔王やその手先の魔民など、外からやつて来て、行者を悩ますものをば、外魔と名づける。その魔王は欲界の第六天にいる。これを天魔と言っている。一般に天狗などと言っているのは、すなわち魔民に相当する。かの魔王は、三界(欲界·色界·無色界)の衆生を配下と思っている。そのため仏道に入る者をば、これを障害するのである。こういうわけがあるから、世俗のことにばかりに執着して、仏法修行を怠っている人は、生死の苦しみを遁れることができないので、天魔もわざわざこれを障げない。魔は皆飛んで行くことが自由で、身体から光を放ち、過去未来の事もわかって、仏菩薩の形に化け、仏法を説くことも、まことに弁舌さわやかである。
……天魔は仏の姿に化け、仏法を述べたりすることができる。いわんやそのほかの形を現わし、そのほかの万事を説きつけたりするのに、なんの妨げがあろうか。なんでも自由である。世間で、花を降らしたり、光を放ったりするのを、貴いという者がある。それは魔の世界に入っていること、疑いないものだ。
このように、外魔がやつて来て悩ますことはないが、もしも仏道修行者の心中に煩悩が生じ、悪い考えにとらわれ、慢心を起こし、心の統一に耽り、知恵に誇り、あるいは二乗心に落ちて、独りみずからの力で煩悩の苦を離れようと求めたり、あるいはまた眼前の大悲にとらわれて、衆生に与える利益を欲したりする。これらは皆、無上の悟りの障害であるから、すべてこれを内魔と名づけている。あるいは病患によつて仏道の修行を怠り、あるいは自分が犯したかかわり合いのために生命を失う。そのため仏道修行を成就することができない。これは皆、魔障(悪魔のさまたげ)の境界である。また、日増しになまけ心ばかりが増長して、たまたま修行しようと思っても、それはちょうど、食べられない病を持っている人が、食物に向かったようなものであるのも、魔障である。よく人を導く高徳の学僧(善知識)を信ずることが極端なために、その糞を食べ、その尿を飲むのもいやだと思わないことがある。これもまた魔障だ。善知識の行ないに過非があるのを見て、仏法を捨て、これを遠く離れるのも、魔障である。ひどく怒るなどの煩悩が強盛に起こることも、魔障である。煩悩が生ずるのを怖れて歎き悲しむのも、魔障だ。かような悪魔の障害が起こるのは、あるいは修行する者の心掛けがまつすぐでないために生ずることもあり、あるいはまた、心掛けが真正であるがために、諸々の魔障がこれを滅ぼそうとして発動することもある。
執着心
仏法の中には、いろいろ宗派が違っているが、もし執着の心にとらわれて、修行の功德に誇る人があれば、魔道に入ることはまぬがれがたい。もしまた、仏法を捨てて、一向に修行をしないならば、魔道に入るまでもなく、直接地獄に堕ちるであろう。魔道に入ることは、仏法を修行したとがではない。仏道修行の功徳に誇り、慢心を起こしたからだ。いまだ三乗の聖果の位に上らぬ人は、皆執着の心を持っている。たとい執着心が起こっても、かような心は皆魔業だと心得て、これに堅くとらわれず、あるいは普通と変わった小智·小德を持っても、それで満足せず、もしまだちっともわからなくても、嫌気を起こさず、いよいよ修行の功を積むならば、本性の霊き光がたちまち目の前に現われ、果てしなき功徳の働きがおのずから成就するであろう。
慢心
問。悪い考えなどを起こすがために魔道に入ることは、もつともなことだ。しかし、智も徳もあらたかな功徳があるのに魔道に入るのは、どういうわけか。
答。たとえて言えば、世間には合戦に忠義な働きをし、奉公の功を積んで、恩賞(褒美)にあずかること、余人にすぐれた人がある。この人がもし恩賞に誇って、出過ぎた行動をすれば、必ず誅罰にあうようなものだ。これは、恩賞のあやまちではない。全く恩賞によって誇る心を起こしたがためだ。仏法もまたそれと同じである。仏道を学ぶ人も、修練の功が積もるに随って、その修行の功徳も普通とは異なり、その不思議なしるしも、余人よりはすぐれている場合がある。この人がもしそのちょつとした智徳、わずかな効験に誇って、高慢の心を起こせば、魔道に入ることは疑いない。この故に、古来、教·禅の修行者の中にも魔の境界に入る人がある。浄土を願う行を修める人にも、魔往生ということがある。これは皆仏法の過ちではない。もつぱら修行の功徳、不思議の効験に誇って、慢心を起こすからだ。その中でも、もし邪悪な考えを起こして、因果の道理を否定し、我慢(自分をえらいとし、他人をあなどる)を募らせて、衆生と仏法とをそしる者は、魔道に入るまでもない。直接に地獄に堕ちるであろう。
「浄業障経」に、六度の行を修めても、仏道の障りとなるわけを説いて、檀那の布施を行なう人は、他人が欲張りなのを見てこれを憎み、戒律を保つ人は、戒を破る人を見てこれをそしる。かつまた、禅定(一心)を修めている人は、とりとめのない人をいやがり、智恵のある人は、愚かな者を軽蔑する。もし人間にこのような心が起こるならば、六度の行の功徳はかえつて仏道を障げる因縁となるということだ。
無心は降魔
問。人間が酒に酔った時は、酔ったことを自覚しないように、魔境に入ってしまった人間は、魔境をわきまえるということはなかろう。そうだとすれば、たといそれに対処する秘訣を前もって習っておいても、使うことができないであろう。やりはじめの未熟な修学者が、なんとかして魔境に入らぬ便法があるだろうか。
答。魔境を怖れて、これに入らぬ手立てを求めること、それこそが魔境というものだ。龍樹菩薩が言われるには、深く思うことがあると天魔のしかけた網にかかってしまう。思うところがなければ、魔網の邪業から遁れることができると。昔の高僧の言うことには、心の外に悪魔の障害はない。無心であるということがすなわち悪魔を降すのだと。道樹禅師が盲と聾とで悪魔を降伏されたのも、この意味である。仏の世界のかたちに心をとらわれれば、それが魔界であり、魔界のすがたを忘れ去ってしまえば、それが仏の世界なのだ。真実、仏道修行をする人は、仏の世界をも愛せず、魔界をも怖れない。もしもこのように気をつけて、はっきり会得したいという思いをも発さず、嫌気がさす気持ちをも発さなければ、諸種の障害は自然に消滅するに違いない。
また、常に仏前において大願を発すがよい。「円覚経」に説かれている。末世の衆生は清浄の大願を発すがよい。どうか私は今、仏の円満な悟りの世界にとどまって、よき導きの師を求めて、外道小乗のものに出会うことなく、次第に諸種の魔障を断ち切って、束縛を脱れて悟りを開き、清浄な宝殿に登りたいものだと。もしこのようにやれるならば、初心の修学者であっても、この大願に乗じて生々世々に末長く、悪邪の魔鬼外道のなかまとなるようなことはない。このような人をば、諸仏も大切に護り思い、諸天もお助け下さるからして、一切の障害災難を離れて、不退転の地位に到達すること、全く疑う余地がない。
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