連続小説【As time goes by】⑤日常

後章

（一）

 いつも通りの日常が始まった。
平日の昼は大学に通って授業を受け、夜はレンタルDVD屋のバイトに精を出す。休日はサークルの友人と買い物に出かけたり、大学近くの居酒屋で酒を飲んだりして過ごす。
親の監視下から解き放たれたお陰で、夜は強くなり、朝は滅法弱くなった。

僕は神奈川に戻ってきてから、一度も唯にメールを送らなかった。
何を送れば良いか迷っている間に自然なタイミングは過ぎ去り、慌ただしい日常は濁流の勢いで非日常の追憶を押し流していった。
こうしてバイト先のカウンターでのんびり客を待っていると、唯と二人で砂浜を歩いた事なんて、まるで無かったことのように感じられた。

唯からもメールは来なかった。
そうして、永遠とも思えた三ヶ月の内の二ヶ月が、あっという間に僕の頭上を通り過ぎていった。 その日はいつにも増して客が少なく、腰の曲がった老人が成人ビデオを七本借りたのを最後に、ぱたりと客足は止んでいた。
店内のBGMは懐メロ特集らしく、KANの「愛は勝つ」が流れていた。

よくシフトが被る先輩の近藤さんが、「愛は勝つ」を口ずさみながら床をモップ掛けしている。
思えば僕は近藤性に縁があるなぁとふと思っていると、モップの動きを止め、近藤さんがやけに真面目な顔でこちらに向き直る。

「愛は勝つって言ってるけど、何に勝ったんだろうな」

神妙な顔つきで何を言い出すのかと思ったら、いつも通りのどうでも良い会話だった。

「なんでしょうね。負けた側のストーリーは語られませんから」
と僕は適当に答えた。

それにさ、と近藤さんが続ける。

「何対何で勝ったんだろうな」

僕は曖昧な相槌をしてからカウンターを出て、戻ってきたDVDを棚に戻した。しばらく作業をしていると、聴き馴染みのある曲がスピーカーから流れた。


三ヶ月前の再会から
思ってもないような急展開
今じゃもっと彼女に恋をして
もう振り出しに戻れるわけない
ただのクラスメイト
そう呼び合えたあの頃は
A long time ago


それは、Mr.Childrenの「クラスメイト」という曲だった。
僕はDVDを持ったまま立ち尽くし、店の角に設置されたBOSEのスピーカーを凝視していた。

この「クラスメイト」が収録された「Atomic Heart」というアルバムは、中学三年の時に唯から借りたものだった。
あの頃の思い出が、走馬燈のように僕の頭の中を駆け巡っていく。
僕は唯と過ごした中学校時代を思い出しながら、最後まで聴き耽っていた。

「なに？どうしたの」

近藤さんの声で我に返った。

「近藤さんて、恋してるんですか？」

唐突な質問にたじろぐこともなく、近藤さんは真っすぐな目で答えた。

「当たり前だろ。あのな、全てにおいて、愛は勝つんだよ」

良く分からない決め台詞をはいた近藤さんは僕の肩を強くたたき、そのまま控室に消えていった。

二十二時になったので、僕はタイムカードを打刻して店を出た。
外は粒子のような細かい小雨が降っていた。
身体に触れた途端に、すっと消えて無くなるような儚い雨だった。

僕は半透明な小さいビニール傘を差して、駅までの道を小走りに駆けた。
そして駅の真向かいにある大きなCDレンタルショップに、吸い込まれるように入った。
僕はあの日近藤の車内で聴いた「As time goes by」と「Atomic Heart」を借りて店を後にした。

タオルで濡れた身体を拭きながら「クラスメイト」を流した。
この部屋が一瞬にして実家の部屋へと様変わりしたような錯覚に陥った。


唯から借りた「Atomic Heart」。
昨日までそれは唯の部屋にあったのだと思うと、なんとも言えない感慨深さに襲われたのを思い出す。
僕は目を閉じて心地よい音楽に耳を傾けながら、見たことも無い唯の部屋を想像したものだった。
その頃の思い出が、ふと甦った。
僕は冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、ベッドに腰掛けた。
アルバムの中の曲はどれも懐かしく、僕をひどく感傷的にさせた。アルバムを一周聴いてしまうと、僕は「クラスメイト」をリピートして聴いた。

何回聴いても、胸が潰れそうに痛んだ。決して叶うことのない片思いの切ない残響が、この曲に染み込んでいるような気がした。
行き場のない唯への恋心。
叶うあてのない望みはいつだって僕の真ん中に存在していて、僕の胸をいたずらに掻きむしり続けた。
五本目のビールに手をかけた。少し飲み過ぎている。
六本目のビールを手に取ると、僕はCDを入れ替え「As time goes by」を掛けた。

目を瞑り、瞼の裏側に唯の顔を思い浮かべた。
唯と二人で歩いたあの夜の海岸線。
行き場のない思いが溢れ出し、胸が締め付けられた。
僕は携帯電話を取りあげ、アドレス帳を開いた。

「小野寺　唯」
その名前はきちんとそこにあった。
僕のメモリーに確かに存在していた。
僕はメール作成のボタンを押し、まっさらな画面をぼんやりと眺めていた。
何を打ったらいいのか、まるで言葉が出てこなかった。こんな状態でメールをしたら余計な事を伝えてしまう気がした。
僕は諦めて携帯電話を床に放り投げた。混濁した意識の片隅で、何かが鳴り続けていた。
それが携帯電話のバイブレーションであったことを知ったのは、翌朝目が覚めてからのことだった。


 （二）

朝起きると、携帯電話に近藤からの着信履歴があった。

近藤からの電話は珍しい。
帰省中はお互い連絡を取り合うが、離れているときに連絡が来るのは滅多に無いことだった。
少しだけ嫌な予感が脳裏を過ぎる。

「てつやにお願いがある」

1回目の着信音も鳴り終わらない内に、近藤は電話に出た。

「突然で悪いんだけど、今週末に帰って来られないか」

今週末の予定を思い返す。土曜日の夜はバイトが入っているはずだ。

「難しいね」
「難しいってことは、無理ではないって事だよな」

近藤は自分本位の解釈で言い切った。

「無理ではないけどさ、理由を言えよ。それから考える。バイトがあるんだ」

近藤はしばらく黙っていた。嫌な予感を増長させるような、濃度の濃い沈黙だった。

「俺、死んじゃうかもしれない」

誇張した表現なのは分かるが、声から伝わってくる不安感や悲壮感はそれなりに深刻そうなものだった。

「何があったんだよ？」

近藤の不安が受話器越しに流れてきて、こちらまで侵食してくる気がした。

「話したいけど、色々と複雑なんだ。詳しくは会った時に話すから、とにかく帰ってきてくれよ。来週から春休みで帰ってくる予定だろ？一週間早く春休みになるだけじゃないか」

「それは大学側に交渉してくれよ。俺だけみんなより一週間早く春が訪れるわけにはいかないだろ。桜じゃないんだ。バイトだって誰かにシフトを代わってもらわないといけないし。だいたいなんで俺なんだ。地元のやつじゃ駄目なのか？」

「こういうこと頼めるのは、お前しかいないんだよ」

「俺だって、訳も分からずに危険な目に遭いたくないよ」

「お前なら平気だ。俺一人だと危ないんだ」

「さっぱり意味が分からないな」

「お前は、酒を飲むだけでいいんだ」

酒を飲むだけとは、どういうことなのだろう。どれだけ話しても全く要領を得なかった。
前向きに検討してやるから、と伝えて僕は電話を切った。

その日の夜、近藤さんにシフトの相談をした。
近藤さんは「お土産を買ってきてくれるなら」という条件付きで受けてくれた。

土曜日は解決したが、日曜日のシフトは誰とも都合が付かなかった。
近藤に「土曜日だけなら帰れる」とメールをすると、「充分です。ありがとうございます」と返事が返ってきた。
僕は土曜日に地元へ帰り、日曜日の昼までに戻ってくることにした。
不可能ではないが経済的ではない。

そうして、何が待ち受けているのかも分らぬまま、あっという間に土曜日はやって来た。