難思議往生を遂げんと欲う
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2025-12-28
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難思議往生を遂げんと欲う:寺川俊昭氏による親鸞の往生観の解説
エグゼクティブ・サマリー
本講演録は、寺川俊昭氏が親鸞聖人の「往生」に関する深遠な知見を解説したものである。発端は1989年に刊行された『岩波仏教辞典』の記述をめぐる本願寺派と岩波書店との間の論争であり、往生が「現世」で起こるのか「命終後」に起こるのかという問いが焦点となった。寺川氏は、この二者択一的な議論が親鸞の思想の核心を見失わせるものであると指摘する。
講演の中心的な論点は、親鸞が提示した「三往生」の区別、すなわち『大経』に基づく「難思議往生」、『観経』に基づく「双樹林下往生」、『弥陀経』に基づく「難思往生」である。親鸞は後の二つを方便化土の往生として「離れる」べきものとし、自らが主体的に立つべき真実報土の往生として「難思議往生を遂げんと欲う」と表明した。
この「難思議往生」の本質は、単なる死後の出来事ではなく、如来の「二種の回向」(往相回向と還相回向)によって現生において実現される生のあり方そのものであると解説される。
往相回向は、衆生を浄土へ往生させる働きであるが、親鸞の理解では、それによって衆生は「現生に正定聚の位に住し、涅槃無上道に立つ」という、煩悩を抱えたまま無上涅槃へと至る歩み(無碍の一道)を恵まれる。
還相回向は、衆生が未来に穢土へ還りて利他行を行うことだけでなく、より根源的には、我々が信心を得る前提として、如来や菩薩が苦悩する衆生を教化し、仏道へと導く大悲の働きそのものである。
結論として、「難思議往生」とは、この二種の回向の恩徳によって、現生において浄土の功徳(不虚作住持功徳)を体験し、無碍の一道という生の歩みを得ることである。それは浄土が功徳として自己に開示された状態であり、だからこそ「往生」と呼ばれる。寺川氏は、往生を単に死後の世界へ追いやる「痩せた往生理解」を批判し、親鸞が示した生の変革としての往生観の重要性を強調している。
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1. 発端:『岩波仏教辞典』をめぐる論争
本講演は、1989年12月に岩波書店から刊行された『岩波仏教辞典』の記述が引き起こした問題を起点としている。
問題提起: 浄土真宗本願寺派は、同辞典の「親鸞」および「教行信証」の項目にある記述に疑義を呈し、岩波書店に訂正・削除を要請した。
「親鸞」の項目: 「他力信心による現世での往生を説き」という記述。
「教行信証」の項目: 「この世での往生成仏を説いた」という記述。
本願寺派の主張: 現世においては往生が定まるのであって、現世で浄土に往生するのではない。したがって、上記の記述は不適切であり、訂正または削除されるべきである。
岩波書店の対応: 辞典の記述は訂正しない方針をとりつつ、第二刷以降で以下の補足を加えた。
講演者の問題意識: 講演者である寺川氏は、この補足を「甚だ不見識」と評し、各派の教義の差異を並べるだけでは問題の核心に迫れないと指摘する。この出来事をきっかけに、宗派の見解ではなく、親鸞聖人その人が往生についてどのような知見を持っていたのかを正確に理解することが、自身の課題となった。寺川氏は、往生を「現生か命終後か」という対立軸で捉える議論が、親鸞が最も重要視した視点を欠落させていると問題提起する。
2. 親鸞における往生理解の核心:三往生の知見
親鸞は、自身の主著『教行信証』や、晩年の著作『浄土三経往生文類』および『如来二種回向文』において、独自の往生観を体系的に展開した。その核心は「三往生」の区別にある。
経典 往生の名称 親鸞による呼称 往生の性質 親鸞の姿勢
『大無量寿経』(大経) 大経往生 難思議往生 真実報土の往生 遂げんと欲う
『観無量寿経』(観経) 観経往生 双樹林下往生 方便化土の往生 永く離れる
『阿弥陀経』(弥陀経) 弥陀経往生 難思往生 方便化土の往生 速やかに離れる
方便化土の往生(観経・弥陀経往生)
親鸞が「離れる」べきとした二つの往生には、共通の性格がある。
観経往生(双樹林下往生):
根拠となる願: 「修諸功徳の願」
特徴: 「万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむる」。すなわち、自らの善行を浄土往生のために振り向け、浄土に生まれたいと願うことを特徴とする。具体的には『観経』が説く九品の往生を指す。
弥陀経往生(難思往生):
根拠となる願: 「植諸徳本の誓願」
特徴: 「如来の尊号をおのが善根として、みずから浄土に回向して、果遂のちかいをたのむ」。名号を自らの善根とみなし、それを自分で浄土へ回向する。
問題点: 親鸞は、この往生がもつ過失として「辺地懈慢界」「疑城胎宮」「仏智を疑う罪」などを厳しく指摘する。
共通点: これら二つの往生は、『観経』や『阿弥陀経』が説くように、「命欲終時」「臨命終時」に起こるものであり、命終の後に実現する往生という見解を顕著な特色とする。
真実報土の往生(大経往生・難思議往生)
親鸞が自らの立場として選び取ったのが、この難思議往生である。
命名の由来: 「難思議」は「不可思議」とほぼ同義であり、「誓願不思議」という親鸞独自の本願理解に由来すると推察される。これは、単に本願の力に乗って往生するというだけでなく、本願に値遇したその時に無上涅槃の功徳が回施されるという「不虚作住持功徳」の働きを指す。
『歎異抄』との関連: 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなり」という『歎異抄』冒頭の言葉は、まさにこの誓願の不可思議な働きによって遂げる往生を表明している。
実現の根拠: 難思議往生は、後述する如来の二種の回向によって実現する往生である。ここに、他の二つの往生との決定的な違いがある。
3. 難思議往生の解明:如来の二種の回向
親鸞は『教行信証』の冒頭で「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二には還相なり」と述べ、浄土真宗のすべてを支えるものとして「往相の回向」と「還相の回向」を提示した。難思議往生とは、この二つの回向によって実現される生のあり方そのものである。
往相回向(おうそうえこう)
一般に「浄土へ往く相」と理解されるが、親鸞の知見はより深い。
往相回向がもたらすもの: 親鸞の論述によれば、往相回向の恩徳は、衆生が死後に浄土へ送られることではなく、現生において真実の行・信・証を獲得することである。
真実の行: 無碍光如来の名を称えること(称名)。
真実の信: 一心に帰命すること(信心)。
真実の証: 正定聚の位に住し、必ず滅度に至ること。
現生正定聚: 真実の行信を得た者は、「即の時に大乗正定聚の数に入るなり」とされ、必ず滅度に至る存在となる。これは、「煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたる」歩みであり、親鸞が「本願一実の直道」「大般涅槃無上の大道」と呼んだ、現生における生の歩みを意味する。
結論: 親鸞にとって往相の回向とは、現生において我々を「正定聚に住して涅槃無上道に立つ」という感謝すべき生存へと導く如来の恩徳である。
還相回向(げんそうえこう)
「浄土から還る相」と理解されるが、これも単に未来の出来事を指すのではない。
一般的な理解との違い: 還相の回向は、我々が浄土で覚りを得た後に、この世に還ってきて衆生を救済するという崇高な祈りとして語られることがある。しかし、親鸞が二種の回向を語る文脈では、それは我々が信心を得る前提として現に働いている如来の恩徳として理解されねばならない。
還相回向の本質: その本質は「利他教化地の益」である。これは、我々凡夫が行う教化とは異なり、大菩薩が任運無功用(作意なく自然)に衆生を救済する働きを指す。
具体的な働き: 苦悩しているがどうしていいか分からない衆生のところへ、如来(応化身)が来て法を説き、固く閉ざされた心を解きほぐし、仏道を求める者へと育ててくださる懇ろな教化の働きである。
釈尊の恩徳との関連: これは、釈尊がこの世に出現し、真実の利益を恵もうとされた「如来の興世」と同じ意味を持つ。
結論: 還相の回向とは、苦悩する我々にかけられた厚い教化の恩徳であり、この恩徳を受けることなしに、往相の回向の恩徳(行信証の獲得)はありえない。
4. 難思議往生の本質:現生における浄土の功徳の体験
二種の回向の理解に基づくと、「難思議往生」がなぜ「往生」と呼ばれるのかが明らかになる。
往生と呼ばれる理由: 「正定聚に住し、涅槃無上道に立つ」という生の歩みは、大行(称名念仏)によってもたらされる。この大行は、世親菩薩が説いた「不虚作住持功徳」を速やかに円満させる働きを持つ。
不虚作住持功徳: これは安楽浄土の功徳の根本である。
体験としての浄土: 本願を信じ念仏する者は、現生においてこの浄土の根本的な功徳を体験し、自証する。
浄土の開示: 浄土の功徳を体験するということは、浄土そのものが功徳という形で自己に開示されたということである。浄土は遠くにある場所ではなく、無碍の一道に立った喜びという信念の中に、功徳として体験される。
結論: この「浄土をいただいた人生」こそが、親鸞の言う「難思議往生」である。それは誓願の不思議によって恵まれた、現生における生の質的な転換であり、人間としての責任を果たしていく覚悟の表明でもある。この覚悟は「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」という超世の志願へとつながる。
5. 結論:痩せた往生理解からの脱却
寺川氏は、親鸞が「難思議往生を遂げんと欲う」と表明したとき、それは単に死後の世界を願うことではなく、二種の回向の恩徳によって現生に正定聚の位を得て、涅槃無上道に立つという生き方を主体的に選び取るという覚悟の表明であったと結論づける。
講演の最終的なメッセージは、往生を単純に死後の出来事としてのみ捉える「痩せた往生理解」に留まることなく、親鸞が示した、現生における生の歩みそのものとして往生を捉える、豊かで深遠な教えに学ぶべきであるという強い勧めである。
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