江戸東京写真帳128:六本木・南麻布・麻布十番
Автор: ひろさんのぷらぷらチャンネル
Загружено: 13 мар. 2025 г.
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散歩写真スライドショー、大江戸線の六本木駅で降りる。六本木交差点の南東、芋洗坂を見て、窪地に沿って、六本木ヒルズに向かう。吉野川(赤羽川)跡を遠く見る。毛利庭園跡、緑地の桜と池を見る。敷地を上がって、児童公園を通る。路地の突き当りの階段を下る。宮村児童公園の窪地の方から逸れて、元#麻布 の高台(麻布桜木町)に上がる。西麻布、笄川(こうがい)側の大横丁坂、北条坂を見て南方に向かう。中国大使館を通って、有栖川宮記念公園に下りて行く。森と池を見て、南部坂を上がる。南麻布、フィンランド大使館の先、阿衡坂(あこう)を見る。本村小(麻布本村町 )を通って、小学校の南側、釣堀坂を下る。薬園坂に出て下り、イラン大使館を見て、明治通り、渋谷川沿いに出る。古川橋の手前から、台地に引き返して、絶江坂(ぜっこう)を上る。三田方面の坂を見て通り、仙台坂上に出る。元麻布、氷川神社に参る。一本松坂を行くと、松の木がある。麻布宮村町側、狸坂を見て戻り、大黒坂を下りる。栄久山大法寺を通って 桜を見る。興国山賢祟寺に入って、高台に上がる。段丘崖にあって墓地が広がる。麻布十番の街中に出て、パンを買って、ロータリーで食べる。吉野川、赤羽川跡の通りに出て、十番稲荷神社を見る。ビルの間の段丘崖にある。高速道路がかぶさる永坂を見て通り、狸穴(まみあな)公園に行く。窪地から鼠坂へ上って、植木坂を見て通り、外苑東通り(麻布板倉町)に出る。狸穴坂を見る。カメラの電池が無くなり、六本木駅から大江戸線で帰る。
#芋洗坂 、付近に芋問屋があった。
#麻布北日ケ窪町 、鳥居坂の台地の裾を北より東へ折れる窪地、南向きで日当りが良い、日南窪(ひなくぼ)と呼ばれた。六本木中学校付近に、円形古墳らしい道灌山という小丘があった。古くから住みよい所だった。毛利甲斐守邸があり、赤穂浪士10人が切腹した。正徳(しょうとく)3年(1713)日ケ窪の北にあたり、麻布北日ケ窪町となった。
#六本木ヒルズ 、江戸時代、長府藩(長州藩の支藩)毛利家の上屋敷跡、明治に中央大学創始者、増島六一郎邸、戦後にニッカウヰスキー東京工場、後にテレビ朝日が取得し、2003年に六本木ヒルズ、現在の庭園整備された。元の池は埋められ、その上に今の庭園が築かれた。
#一向山三光院、専称寺 は浄土宗、伊賀守筒井順慶の姪で、上総介織田信長の室となっていた三光院清心比丘尼(びくに)が開基(寛文3年1663年寂)、澄譽傳郭上人が開山、創建した。西方三十三所観音32番で、現在活動していない。
#大横丁坂 、桜田の通りから西へ下る坂、長い横丁と呼んで「大横丁坂」となった、六本木通りがない時代、渋谷方面への街道であった。
#麻布桜田町 、治承(じしょう)年間(1177-1181)源頼朝が、奥州征伐の際、鎮守の霞山稲荷に神領を寄進し、神領の印に田の畝(うね)に桜を植えた。追々繁って桜田とよばれた。桜田町はもと霞ヶ関にあったが、寛永元年(1624)江戸城御用地になり、代地として、麻布の高台、中国大使館のあたりから、大地の尾根沿いを北に向かう通称、テレ朝通りに沿いが町域である。
北条坂、坂下近く南側に大名 北条家の下屋敷があった。
#有栖川宮記念公園 、江戸時代、陸奥盛岡藩下屋敷、1896年(明治29)、有栖川宮威仁親王(たかひと)が霞が関の御殿から移動し御用地となった。威仁親王の生母、有栖川宮 幟仁(たかひと)親王の側室、森則子の住居が設けられた。有栖川家が断絶すると、1913年(大正2)に、同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承された。児童の健康や自然に格別の関心を持っていた高松宮は1934年(昭和9)、御用地を公園地として東京市に下賜された。有栖川宮熾仁親王(たるひと)の銅像の北東部の一帯と、東京都立中央図書館や港区立麻布運動場が編入された。
有栖川宮 熾仁親王(たるひと)、江戸後期、明治時代の日本の皇族、政治家、軍人、陸軍大将大勲位功二級、有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子、生母は佐伯祐子、官職は、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事、元老院議官、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主など、和宮親子内親王と婚約したが、公武合体を余儀なくされ、和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。水戸藩主、徳川斉昭の娘、徳川慶喜の妹、徳川貞子を迎えた。青年期の熾仁親王は、明治維新後、陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895)に61歳で薨去。跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王(たかひと)の代で断絶した。
麻布広尾町(元は広岡)、平尾、広野と言われた。渋谷区へまたがる低地一帯は、広尾原と呼ばれ、江戸初期は荒野であった。延宝年間(1673-1681)有栖川宮記念公園の入口付近に百姓町屋ができて、武家地と畑地になった。正徳(しょうとく)3年(1713)に町奉行の支配となり、麻布広尾町となった。
#麻布富士見町 、 盛岡町の台地が、古川へ望む傾斜地で、富士山がよく望見できた。元禄11年(1698)将軍家の別荘である白銀(しろかね)御殿ができて、白銀御殿の別名、富士見御殿にちなんだ。
#麻布盛岡町 、延宝年間(1673-1681)奥州南部藩南部氏の邸地となって、明治維新まで続き、明治5年(1872)、南部氏が盛岡城主であったので、盛岡町と命名された。
#麻布本村町 、古川の谷へ南面する台地から傾斜地、古くから住居好適地に選ばれて、貝塚が存在する、阿佐布という地名は、当初このあたりを指した。
#麻布竹谷町 、俗に竹ヶ谷と呼んだ、「ねくるみ村」とも呼ばれ、うぐいすの名所として巣立野とも呼ばれた、「うぐいすをたづねたづねて阿左布まで」という芭蕉の句、明治5年(1872)、武家地を合併して麻布竹谷町となった。
#阿衡坂 、本村小学校一帯、江戸初期に保科肥後守の下屋敷であった、保科正之は、将軍秀忠の実子で高遠藩主保科家の養子となった、温厚明敏で、将軍の侍従となった、中国で「阿衡」(天子の補佐役、摂政、宰相の異称)といった。謙虚誠実で、庶民や官僚に敬愛された。
#釣堀坂 、釣堀があった。
#薬園坂 、江戸前期、坂の西に、幕府の御薬園、薬草栽培所、小石川植物園の前身があった。
#絶江坂 、承応2年(1654)坂の東側へ、赤坂から曹渓寺が移転した。和尚絶江が名僧で 付近の地名となった。
#仙台坂 、坂の中程から上に、仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があった、坂上に仙台味噌の工場があった。
#麻布氷川神社 、天慶5年(942)源経基が、平将門の乱、平定のため東征し、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布、冠の松(麻布一本松)の地に創建した。文明年間(15世紀後半)太田道灌が勧請した説もある。2,000坪の社有地は、増上寺の所領となって、万治2年(1659)当地へ遷座した。東京大空襲で焼失し、戦後に再建された。神輿、神輿倉、神楽殿、手水舎は、江戸時代のもの。
#麻布一本松町 、現在も植え継がれている一本松、源経基に関する伝説がある。笄町(こうがい)の伝説の続き、笄橋を渡った経基は、民家に泊まり、翌朝、装束を麻の狩衣に着替え、装束を松に掛けた、それで、冠松、一本松として語り継がれた。松之宮様という京都から下った人が亡くなり、衣冠と遺体を埋め、印として植えた説もある。
狸坂、人をばかすたぬきが出没した。旭坂ともいう。東へのぼる坂。
#麻布宮村町 、麻布村総鎮守、氷川神社があり、宮村といった。氷川神社は、中世以前の古社で、近辺は、寛文2年(1662)に御用地、増上寺の隠居屋敷となり、町名が残った。
大黒坂、坂の中頃 北側に大黒天(港区七福神)をまつる大法寺がある。
#榮久山大法寺 、日蓮宗、慈眼院日利上人が開山、慶長2年(1597)に創建した。大黒天を祀っており、門前の大黒坂の由来となっている。
#興国山賢崇寺 (けんそう)曹洞宗、 寛永12年(1635)、鍋島藩初代藩主、鍋島勝茂が、疱瘡で亡くした息子、鍋島忠直を弔い建立した。江戸府内では寺院の新立が禁じられ、仙波氏菩提寺だった高輪正重寺を買収し現在地に移す。忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」から興国山賢崇寺と号した。以降、鍋島家の菩提寺、東京大空襲で消失し再建された。広大な境内に、鍋島ハイツという高級マンションが建てられた。
麻布坂下町、一本松町の台地から、古川の岸へ下りる東の裾、「四方に坂があるから」とする。「一本松坂の下」「大黒坂の下」と言った。
#麻布十番 、古くは、麻布村に属する低湿地帯、江戸時代、仙台藩の下屋敷、韓国大使館から二の橋にかけて、低地側の湿気の多さに困り、高台側に藩邸として、低地側半分を幕府に返上した。幕府は、低給の役人に住まわせ、河川改修などによって干拓、開拓が進み、明治時代、神楽坂と並ぶ繁華街に発展した。
#麻布十番稲荷神社 、末廣神社(元は坂下町鎮座)及び竹長稲荷神社(元は永坂町鎮座)である。空襲により両神社は焼失し、現在地に換地、隣接指定され、合併し十番稲荷神社と改称された。
末廣神社、慶長年間(1596-1615)に創建され、元禄四年(1691)には坂下町に鎮座していた。往古より境内に多数の柳があり「青柳稲荷」と称された。その一樹の枝が繁茂し、扇の形を成し「末廣の柳」と呼ばれ、社名に冠された。
竹長稲荷神社、和銅五年(712)または弘仁十三年(822)、慈覚大師所縁の八咫の神鏡を以て、武蔵国豊島郡竹千代丘(鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請した。延喜式内社の稗田神社(ひえた)とされる古社。弘安二年(1279)に鳥羽氏が社殿を再建し、寛永元年(1624)に永坂町に遷座された。現存しないが、社宝に広重作の宝船の絵があった。宝船の巡拝所。
#麻布永坂町 、町の北に、長い坂があった、長坂氏の居住地があった説もある。古い記録にある坂道は、上野の車坂と永坂である。
#麻布狸穴町 (まみあな)、かつては飯倉村と呼ばれ、江戸時代、町並みとなり飯倉狸穴町となった。谷あいの土地で、木立が繁り、魔魅(まみ)、アナグマも住んでいたと言われた。また、荻生徂徠(1666-1728)は、採金「まぶ」のなまりとし、享保6年(1721)頃、黄金のような砂がでたが、掘らなかったと言う。
#鼠坂 、細長く狭い道を ねずみ坂 と呼んだ。一名 鼬(いたち)坂 で,上は植木坂につながる。
飯倉という地名は、古くからある、伊勢神宮の直轄領で、役所、倉、水田を含む、屯倉(みやけ)を置いた。この名が起こった。飯倉村と呼ばれたが、江戸時代、虎ノ門から品川宿への道筋にあたり、寛文2年(1662)に町奉行の支配に入り、飯倉町一丁目~六丁目となった。
#狸穴坂 (まみあな)、「まみ」とは雌ダヌキ、ムササビ、アナグマなど、 巣穴が坂下にあった。採鉱の穴であったという説もある。
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