バイブル・エッセイ 1222『信仰の原点』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父)
Автор: 片柳神父のチャンネル「道の途中で」
Загружено: 2025-10-01
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00:00 福音朗読
01:40 説教
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「信仰を増してください」という弟子たちに、イエスが、「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞く」と答える場面が読まれました。弟子たちは自分たちに信仰がすでにあるこことを前提として、それを「増して」くださいと願っているのですが、イエスは、弟子たちにはまだ「からし種一粒」ほどの信仰もないと思っていた。そう考えてもいいでしょう。自分を慕ってついて来る忠実な弟子たちに、イエスはなぜそんなことを言ったのでしょう。
続いて読まれた食事の給仕をするしもべのたとえ話から考えるなら、弟子たちの中には、まだ見返りを求める心が残っており、それが信仰を邪魔していたと言えるかもしれません。信仰とは、言うまでもなく、神を信じるということです。イエスの教えに照らしてもう少し具体的に言えば、「神はわたしたちを愛してくださっている。わたしたちは、誰もが神の子だ」と心の底から信じる、それが信仰だと言ってよいでしょう。
神が自分を愛していると信じるとき、わたしたちは神の愛に応え、神のために何かせずにいられなくなります。神のために何かせずにいられないし、もし神が何らかの使命をわたしたちに与えるなら、喜んでその使命を果たさずにいられない。使命を果たしても、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言って、何の見返りも求めない。神の愛に、少しでも報いることができただけで満足する。それが信仰なのです。
そのような観点から弟子たちの行動を振り返ると、弟子たちはまだ、「自分たちの中で誰が一番偉いか」を競い合い、イエスの元での高い地位を奉仕の見返りとして求める段階にありました。イエスを信じていたのは間違いないかもしれませんが、見返りを求めている点で、弟子たちの信仰はまだ不完全なものだったのです。「信仰というのは、多い少ない、大きい小さいを競うものではない。大切なのは、信仰の深さ、神への愛の深さなのだ」、イエスはきっと、弟子たちにそのことを教えたかったのでしょう。
本物の信仰、本物の愛が、「からし種一粒」ほどでもあれば、「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞く」、つまり、できないことなど何もないとイエスは弟子たちに言います。わたしたちの望みが信仰から生まれたものである限り、どんな困難があったとしても、神さまはわたしたちに、その困難を乗り越える力を与えてくださるからです。本物の信仰、本物の愛が「からし種一粒」ほどでもあれば、わたしたちは、あらゆる困難を乗り越えられる。できないことなど何一つない。それが、イエスの言いたかったことなのです。
わたしたちも「信仰を増してください」と願う前に、まず「自分の心に信仰はあるだろうか」と問い直したいと思います。わたしたちの心に、純粋な信仰、神が自分を愛してくださってるという揺るぎない確信、神の愛に応え、自分にできるすべてのことをしたいという奉仕の願いはあるでしょうか。信仰の原点である、神への愛に立ち返ることができるよう、心を合わせて祈りましょう。
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