八代目 三笑亭可楽『うどんや』 小山觀翁撰集
Автор: 観翁撰集 Kanou Collections 小山泰生象翁 編
Загружено: 17 апр. 2021 г.
Просмотров: 4 193 просмотра
収録のデータは不詳。
*********************
8代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、
1897年〈明治30年〉1月5日 - 1964年〈昭和39年〉8月23日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。
本名、麹池 元吉(きくち もときち)。
出囃子は『勧進帳』。所属は日本芸術協会。文化放送専属。精選落語会レギュラー。
経歴
黒門町の経師屋の家に生まれる。
家業を継ぐべく修行するも、父親の家作に出入りしていた5代目古今亭志ん生の吞気な生活ぶりに憧れを抱く。
天狗連を経て1915年、初代三遊亭圓右に入門。三遊亭右喜松となる。
1918年10月、三橘と改名。そののちに7代目翁家さん馬門下に移ってさん生となる。1922年、翁家馬之助で真打昇進。
その後6代目春風亭柳枝門下に転じてさん枝に改名。1924年8月、5代目柳亭左楽門下となり春風亭柳楽と改名。
1940年4月、6代目春風亭小柳枝となる。1946年5月、8代目可楽を襲名した。
他人に媚びへつらうことが出来ず、不平不満や愚痴がすぐ口をつく性格が災いして、師匠と名前をたびたび変え、長く不遇であった。
晩年に人気が出る(後述)も、日本芸術協会会長6代目春風亭柳橋との衝突から長期休業するなど、報われなかった。
1962年に内幸町イイノホールで開催された精選落語会のレギュラーのひとりに抜擢され(他は8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん、8代目林家正蔵(後の林家彦六))、やっとスポットライトを浴びた矢先、
1963年の暮れに体調不良を訴えて入院、胃の手術を受けるも1964年に食道癌で死去。
享年67。墓所は台東区興禅寺。
芸風・人物
極めて動作が少なく、独特の渋い低音と妙に舌足らずの語り口。「べらんめえ」口調ながら、不思議と礼儀正しく、客との距離感は絶妙であった。酒豪であり、また酒が出てくる噺を好んで演じた。『らくだ』(上方の6代目笑福亭松鶴から直接移された惨忍な演出)、『今戸焼』が絶品と評されたほか、『二番煎じ』『反魂香』『うどんや』『岸柳島』『鰻の幇間』などの演目を得意とした。ただ無精な性格ゆえに十八番の『らくだ』の他、『芝浜』や『子別れ』のような小一時間もかかる大ネタでも他の落語家に比べて短く切り上げていた。また不器用ながら小唄や舞踊も時折演じていた。
このように芸風は地味で、一般大衆受けする華やかなものではなかったが、少数ながら熱烈な愛好者がおり「可楽が死んだらもう落語は聞かない」とまで語る者もいた。彼らの多くは現役ミュージシャン、それもジャズマンで、著名なところでは小島正雄、北村英治、フランク永井などがいた。とくに人気歌手であったフランク永井との交流は自慢の種で、可楽自身もフランク永井が贔屓にしてくれることをうれしそうに語ったり、酔うとフランク永井のヒット曲「夜霧の第二国道」を歌ったり、『らくだ』の屑屋のセリフに「低音の魅力ってやつだね」というクスグリを入れた。
いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、意外にも女性にはよくもてたという。
弟子
• 三笑亭夢楽
• 三笑亭笑三
• 9代目三笑亭可楽
• 三笑亭茶楽
9代目可楽と茶楽は8代目可楽没後、兄弟子の三笑亭夢楽門下に移籍した。
出典:ウィキペディア

Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео mp4
-
Информация по загрузке: