金沢城 Kanazawa Castle
Автор: 日本国鉄道 Japanese National Railways
Загружено: 2022-03-11
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金沢城は、加賀国石川郡尾山(現・石川県金沢市丸の内)にあった日本の城です。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城でした。城址は国の史跡に指定されており、城址を含む一帯は金沢城公園として整備されています。
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城です(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形にちなんでいます。台地先端を山の尾とみなした)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴となっています。
この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」でした。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城とも呼べる要塞でもありました。織田信長は一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置きました。後に盛政は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えました。利家は1592(文禄元)年から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建てました。兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属して作らせた蓮池庭を前身とし、代々の藩主が改修した大名庭園です。
なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られていますが、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていました。佐久間盛政は新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いましたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用しました。しかし金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されています。
城址は明治以降、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が1995(平成7)年まで置かれていました。
金沢城は典型的な平山城で、本丸、二の丸、三の丸、新丸、北の丸、玉泉院丸の曲輪がありました。1602(慶長7)年、落雷により天守閣を焼失後は再建されず、代わりに三階櫓が建てられました。これは、当時の加賀藩が江戸幕府と緊張関係にあり、大名の力を象徴する天守閣に徳川家が目を光らせていたために天守閣を再建しづらかったためと言われています。
1631(寛永8)年の寛永の大火後は二の丸が城の中枢となり二の丸御殿が藩主の居所となりました。城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)が存在しました。保存状態が良いのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになりました。このうち、いもり堀は半分の堀幅で復元され、2010(平成22)年に再び水が張られました。百間堀は1911(明治44)年に水が抜かれて百間堀通り(百万石通りの一部)となりました。石川門と兼六園をつなぐ石川橋は、その際コンクリートアーチ橋に再建されたもので、それ以前は土橋でした。白鳥堀は緑化され、歩行者専用の白鳥路(はくちょうろ)として市民の散策路になっています。
藩主の正式な登城経路は、大手門(新丸)→河北門(三の丸)→橋爪門(二の丸)→二の丸御殿であり、石川門や鼠多門は搦手門(裏門)でした。
城外には東西の内外計4本の惣構堀(そうがまえぼり)が掘られていました。惣構堀は多くが後に用水路として転用されました。兼六園内の山崎山は、惣構外郭土塁の一部であり、その南側の池は水堀の名残りです。
金沢城はあまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵を迎え撃つための軍事拠点として城下3ヵ所に寺院群が設けられました。そのうちのひとつ、寺町寺院群の妙立寺(通称:忍者寺)の井戸には城内に通じる抜け穴があるとされています。
橋爪門続櫓の中央には武器や食料などの物資を2階へ荷揚げするための大きく広い吹き抜けの構造になっていました。橋爪門続櫓が復元された時、昔の荷揚げ用の吹き抜けの空間の構造はそのままに再現されており、その吹き抜けの空間をそのまま利用してエレベーターが設置されています。
瓦には冬の積雪に耐えられるように軽量な鉛瓦が用いられました。有事の際には鉄砲弾の原材料に転用可能だったと言われています。
1996(平成8)年石川県が国から金沢城址を取得し、金沢城址公園として整備を開始し、1999(平成11)年金沢城の復元整備事業の第1期工事に着手しました。
2001(平成13)年第1期工事により、菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元完了し、金沢城公園と改称されました。復元に当たって実際の木材は六寸角でしたが現代の耐震建築基準に合わせて八寸角が使用されました。
2006年~2014年にかけて 第2期復元整備事業として、石川門の保存修理、橋爪門櫓門の復元整備などが行われました。金沢城の中核をなす二の丸御殿の復元については、2007年9月19日の石川県議会において谷本知事が「絵図、文献資料の解読に一定期間が必要であり、現時点では復元は困難(要旨)」との考えを示しました。
2015年3月撮影
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