アメリカで起きている変化…長崎の原爆生んだ町はいま 原爆投下から80年【報道ステーション】(2025年8月8日)
Автор: ANNnewsCH
Загружено: 2025-08-08
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長崎に原爆が投下されて9日で80年。
6万人を超える人が住むワシントン州・リッチランド。コロンビア川のほとりにあり、自然に囲まれたこの町は、原爆と切っても切れない関係にあります。
町の通りには、核に関連する言葉が使用されていたり、地元に密着したブルワリーにも、核を思わせるモチーフが並びます。
少数の先住民族しか住んでいなかったこの地の転機は、太平洋戦争の真っ只中。アメリカ政府が、周辺を原爆開発の地に選んだことです。
後に長崎に落とされることになる原爆の燃料“プルトニウム”の精製のため、巨大な核施設群が作られました。そして、全米から集められた労働者たち。アメリカ政府によって、豊かな生活が保障され、町は発展を遂げたのです。
「リッチランドは退屈知らず。成人住民の過半数を22歳から44歳が占め、若い世帯が住むには理想的な町です」
戦後、長崎で7万3000人以上の命が奪われたと知られてからも、原爆は、繁栄をもたらした“象徴”であり続けました。いまも、町の人の思いは変わりません。
住民
「(Q.故郷の歴史をどう受け止めている)愛しています」
住民
「いまの町があるのは、原爆開発のおかげです」
プルトニウムを精製していたこの町の施設は、その後も、核開発の舞台であり続けました。冷戦下で、アメリカとソ連の軍拡競争が続いたからです。
戦後も続いた原子炉の建設に、エンジニアとして携わったデル・バラードさん(95)。原爆への思いを聞きました。
デル・バラードさん
「(Q.原爆が町に遺した功罪は)そうですね…『決して開発されるべきではなかった』という感情もあるでしょうが、開発されたのは事実です。(Q.この80年で原爆に対する考えは変わったか)開発当初は、必要な“道具”と考えられていた。いまでも抑止力として機能し、そう意味で必要だと思います。世界中に存在することが望ましいかといえば、望ましくはない 。不幸な話ですが、それが現実です」
時が経つにつれて、原爆を生んだ町では、複雑な感情が芽生えていきました。
議論を巻き起こしたのは、地元の高校のシンボルマークに採用された“キノコ雲”。
80年代後半、反対運動を起こしたのは、この高校で教師をしていたジム・デスレイジさん(79)です。学校全体での投票に持ち込んだものの、否決されました。ジムさんの運動は、生徒や職員からも理解されなかったといいます。
ジム・デスレイジさん
「生徒の7割ほどが、キノコ雲に賛成票を投じたのです。生徒たちからも『なぜそんなことが言えるのですか?この町も学校も嫌いなのですか?』と言われました。日米双方で失われた命の数は、悲惨です。その戦争を原爆が“終わらせた”と、広島と長崎市民を代償に…。いまでも、子どもたちにとって、いいシンボルだとは思いません」
今年、アメリカの調査会社が行った世論調査では、原爆投下を『正当化できる』と答えた人は35%で、『正当化できない』と答えた31%と、ほぼ同じ割合となりました。
リッチランド近郊の町でも原爆は“負の遺産”として、受け止められ始めています。
1987年、アメリカとソ連の対立が緩和したことによって、稼働を停止した核施設。
リッチランド出身のキャスリーン・フレニケンさん(64)が危惧するのは、“核廃棄物”の存在です。核施設の地下には、いまも、2億リットルを超える放射性廃棄物が残され、除染作業が続いています。
キャスリーン・フレニケンさん
「ここは、放射線量が半分に減るまで、何万年もかかります。政府による除染作業は、2070年ごろまでです。無傷の勝利とは、ほど遠いのが現実です。地元は“偉業”“戦争での勝利”だけに目を向けようとしていますが、私は、それに伴ったあらゆるコストを考えるべきだと思います。戦争は、双方に悲惨です。日本人や長崎だけでなく、私たちが生み出した大量の核廃棄物も、語り継いでいくべきだと思います」
[テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp
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