日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/4/9)
Автор: 日本キリスト教団六ツ川教会
Загружено: 8 апр. 2025 г.
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2025年4月9日(水)
【旧約聖書】
主を仰ぎ見る人は輝き、辱めに顔を伏せることはない。詩34:6(協)
【新約聖書】
私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。ヨハ13:15(協)
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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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ある日、目が覚めると、目の前で我が家の猫がおしりをこちらに向けて寝ていました。最初は「うわっ」と思いましたが、どうやら、こちらにお尻を向けて寝ているのは、こちらを信頼してくれているからだそうです。確かに猫にとってお尻はデリケートな部分です。そういえば、子猫の頃、トイレがまだ上手にできなかったので、専用のシートでお尻を拭いてあげましようとしましたが、とても嫌がっていました。弱いところは触られるのは嫌なものです。
本日与えられたヨハネによる福音書は、イエスが弟子たちの足を洗う物語のところです。今のようなちゃんとした靴のない時代、一日の終わり頃には、足はとても汚れています。イエスは夕食のとき、自ら弟子たちの足を洗おうとなさったのです。これは本来ありえないことです。僕が主人の足を洗うことはあっても、主人が僕の足を洗うことはありません。それと同じように、主人が弟子の足を洗うことなど、ありえないことなのです。ペトロはイエスに「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とおっしゃいます。イエスが弟子の足を洗うのは、謙遜、仕える者になることを具体的に表していますが、洗われる方としては、それはそれで遠慮したくなります。足は綺麗なものではありませんし、しかも夕方となると、かなり汚れています。足独特の嫌な臭いもするのではないか、そんなところを誰かに触ってもらいたいとは思わないでしょう。ですからペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うのは、とてもよく理解できます。
しかし、自分の弱いところを隠し、差し出さないのは、神さまとの関わりを断つことになるのです。自分の弱いところを隠さずに神さまに差し出す、自分の醜いところを隠さずに神さまに差し出す、そうすると、神さまはその手で触れてくださり、清めてくださるのです。
教会とは、人と競って自分の良いところを見せ合う場所ではありません。それぞれが抱える痛み、苦しみをそのまま差し出す場なのです。そしてその傷を互いに担い合い、神さまの癒しを願うところなのです。自分の弱さを隠して強がるのは、神さまのとの関わりを断つことになるのです。イエスはこのようにおっしゃいます。「私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」私たちも人に仕える者となり、苦しみを一人で抱え込むのではなく、そのまま差し出したいと思います。旧約の詩人はこのように歌います。「主を仰ぎ見る人は輝き、辱めに顔を伏せることはない。」主を仰ぎ見れば、隠したくなるその苦しみや痛みが、主の手によって清められるのです。
日本キリスト教団六ツ川教会牧師 桐藤 薫

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