「還相回向」考察の基座——常没の凡愚・流転の群生
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2025-12-31
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エグゼクティブサマリー
本論文は、親鸞の教学における「還相回向」が、現代社会が宗教に求める社会的倫理への応答としていかに機能するかを解明するための基礎的な視座を提示する。その核心は、還相回向によって実現される利他性が、一般に考えられるような自己の意思や努力に基づく利他的行為とは根本的に異質であるという点にある。
論文は、浄土教の出発点が「常没の凡愚・流転の群生」という、自己の行為能力に対する徹底的な絶望と自己認識にあることを強調する。この自己認識に立つとき、個人を起点とする利他行は不可能であり、むしろ自他ともに破滅に至る危険性を孕むと結論づけられる。
したがって、還相回向における利他性は、この「私からの利他性」との厳格な断絶を経て、初めて開かれるものである。それは行者の願いや能力によるものではなく、阿弥陀如来の誓願、すなわち「他力」によって完全に引き起こされる。この、自己の主体性を放棄した先に見出される他力による利他性こそが還相回向の本質であり、この点を明確に認識することが、浄土教の真義を見失わずに還相回向を考察するための不可欠な「基座」であると、本稿は結論付けている。
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序論:現代における宗教の課題と「還相回向」の位置づけ
阿満利麿氏が指摘するように、現代において宗教は、単に個人の内面的な「安心」を追求するだけでなく、「宗教と社会倫理の関係」という課題に直面している。情報量が飛躍的に増大し、一人ひとりが関わるべき範囲が拡大した現代社会では、宗教の信心が自己の社会的存在性をも包摂する形で明確化されることが求められている。
親鸞の仏教思想において、この社会的・倫理的課題に応答する核心的な教学語が「還相回向」である。本稿は、この還相回向を直接的に論じるのではなく、その考察に不可欠な前提、すなわち浄土教が立脚する人間認識の基盤を明らかにすることを目的とする。
浄土真宗の基本構造:二種回向と利他性
大乗仏教としての浄土真宗
親鸞は、自らが帰依する浄土真宗を「大乗のなかの至極なり」と断言した。大乗仏教の根本課題は「自利利他円満」、すなわち自己の救済(自利)と他者の救済(利他)を両立・完成させることにある。この親鸞の言葉は、浄土真宗がこの大乗の課題に十全に応えるものであることを示している。
往相回向と還相回向
親鸞によれば、浄土真宗の教えは二つの回向に集約される。
往相回向:阿弥陀仏の浄土へ往生するための働き。主として「自利」の側面を担う。
還相回向:浄土へ往生した者が、再びこの世に還り衆生を救済する働き。主として「利他」の側面を担う。
この還相回向が利他的性格を持つことは、親鸞の以下の和讃に明確に示されている。
還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に回入して 普賢の徳を修するなり
この「利他教化」の内実、すなわち還相回向が自己の社会的存在性の課題にどのように応えるのかを問うことが、本稿の最終的なテーマにつながる。
浄土教の基盤:徹底した自己認識
事相的立場と現実への非介入
親鸞の仏教は、現実の社会的課題に対して直接的な言及や行動が少ないという特徴を持つ。
折原脩三氏の指摘:「浄土教が世界の包括的説明を志す理論仏教ではなく、ただ堕ちるものを救うという事相的立場を守ものである。」
『末燈鈔』に見る親鸞の姿勢:飢饉という悲惨な現実を前にして、「おどろきおぼしめすべからずさふらふ」と述べ、課題を現実的対応から「信心決定の有無」へと一挙に転換させる。
丸山照雄氏の評価:この姿勢を、日蓮と比較して「歴史社会の現実とは一線を画する地点において、『人間』解放の根拠を定めた」「歴史に対するニヒリズム」と評している。
「雑行」批判と純正浄土教の超絶性
法然・親鸞は、人間内的な努力や計らいが混入した他の仏教を「雑行」として批判した。それに対し、純正浄土教は「全く人間內的な一切から超絶したところに立場を有する」。この超絶性こそが、人間の状態や能力といった条件を一切問わず、あらゆる人々に関わりうる根拠となっている。
「機をはからふ」:自己の課題への回帰
浄土教の祖師たちは、法の探求において、まず自己自身のあり方(機)を問うことの重要性を説いた。法然は「教をえらぶにはあらず、機をはからふなり」と述べ、仏教の真理との出会いは、抽象的な教義の比較検討ではなく、自己が抱える根源的な課題を明らかにすることから始まるとした。
核心的概念:「常没の凡愚・流転の群生」
親鸞教学の中心語
曽我量深師が親鸞教学の中心と位置づけるのが、『教行信証』の一節である。
常没の凡愚流転の群生、無上妙果の成じ難きにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。
この「常没の凡愚・流転の群生」(常に迷いの世界に沈み、輪廻を続ける者)という言葉は、『歎異抄』に記される「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」という人間の本質が、現実の相として現れたものである。この徹底した自己認識こそが、浄土教の真実へと至る唯一の契機となる。
仏道における転換点
この自己認識に至ったとき、仏道の目的が転換する。すなわち、成仏という「結果」を求めるのではなく、その唯一の「因」である「信楽を獲得すること」が目的となる。課題は、何を行うか(行)ではなく、あらゆる行為の主体である自己そのものへと深化する。
親鸞の課題意識の現れ:善導解釈の独自性
親鸞のこの課題意識は、善導の『往生礼讃』にある「四得十三失」の文の独特な解釈に顕著に現れる。
一般的な解釈 親鸞の解釈
「雑縁乱動」は、「正念を失する」理由を説明する句と見なされる。 「雑縁乱動」(様々な縁によって心が乱れ動くこと)自体が、往生が定まらない具体的内実として独立してクローズアップされる。
この読み方は、「雑縁乱動」という状態が、親鸞にとって乗り越えるべき切実な自身の現実であったことを示唆している。親鸞の問いは、常に行為の主体である自己に向けられていた。
利他行の不可能性:道綽と龍樹の視点
道綽の自己省察(『安楽集』)
道綽は、凡夫がこの穢れた世界(穢土)で衆生を救済しようとすることの危険性を、厳しい自己省察を通して論じた。
若し是れ実の凡夫ならば、唯恐らくは自行未だ立たず苦に逢えば即ち変じ、彼を済わんと欲つせば相い俱に没しなん。
自己の救済すら確立できていない凡夫が利他行を試みても、逆境によって心は容易に変節し、救おうとした相手と共に迷いの世界に沈んでしまう。ここには、凡夫の質に対する徹底した凝視がある。
龍樹の易行道開顕(『十住毘婆沙論』)
大乗仏教の祖である龍樹は、自力による修行(難行道)の困難さと、その挫折によって利他性を放棄した二乗(小乗)の境地に堕することへの深い恐怖から、他力による道(易行道)を求めた。しかし、その転換は安易なものではなかった。
易行道への危惧:龍樹は、易行道を求める自らの心を「儜弱怯劣」(臆病で劣った心)であると厳しく叱咤する。これは、難行道の立場から見れば、易行道が利他性を放棄した仏道からの逸脱に見えるという、深い危機感を内包している。
転換の性質:易行道は、難行道と並列する選択肢ではない。それは、難行道の完全な行き詰まりと、仏道を廃するかもしれないという危機の中、各自の絶対的な責任において内側から開かれる道である。
龍樹の時点では、易行道がいかにして大乗の課題である利他性を満足させるのかは明確にされなかった。この問いへの応答こそが、その後の浄土教の歴史的探求となり、親鸞の還相回向の教学において一つの結論へと至る。
結論:還相回向を考察するための基座
親鸞の還相回向は、人間の社会的・関係的存在としての課題に応えるものである。しかし、その内実を正しく理解するためには、以下の基座を確認することが不可欠である。
1. 利他性の断絶と異質性 還相回向における利他性は、「常没の凡愚」という徹底した自己認識を前提とする。それは、凡夫である「私」に立脚した自己努力による利他性とは「深い断絶」があり、本質的に「異質」なものである。それは、自己からの利他性が廃捨されるのではないかという恐怖を通過して初めて開かれる。
2. 他力による利他性 利他の主体は凡夫自身ではない。それは、完全に如来の力(他力)によって引き起こされるものである。このことは、親鸞と蓮如の以下の言葉に集約される。
この基座の確認が曖昧なまま還相回向の利他性を論じると、再び人間中心の行為論に陥り、凡夫の救済を第一義とする浄土教の最も大切な核心を見失う危険性がある。本稿は、この断絶の認識こそが、還相回向を考察するための揺るぎない出発点であることを確認したものである。
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