「久米舞」 演奏:雅楽道友会 令和元年 10月 22日 第45回乃木神社管絃祭
Автор: 雅楽道友会
Загружено: 2023-03-31
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令和元年 10月 22日 第45回乃木神社管絃祭
天皇陛下御即位奉祝
舞人 一﨟 宇野和史
二﨟 生田目文彦
三﨟 横田良治
四﨟 安孫子季朋
和琴:柴田るみ子
拍子:藤脇亮
篳篥:今西靖志
笛:和栗一恵
管絃祭解説からの抜粋
【久米舞】
雅楽の中でも、日本古来より伝わる歌舞を源とする国風歌舞に類する。大陸より伝わった楽の影響を受けつつ平安期頃までに完成された上代歌舞である。風俗歌舞とも呼ばれる。
神武天皇が大和の宇陀に居る兄猾(えうかし)を討伐した時、伴に居た久米部が歌ったとされている戦勝の歌に、舞をつけたものである。久米部は、大和朝廷の軍を司る人員として久米直に統率され、古くから仕えたが、台頭した大伴氏にその座を取って変わられた。戦闘を主として天皇に奉仕する大伴・佐伯の両氏によって舞は伝承され、征服者の威厳を示すものとして儀式化されたと考えられている。
久米舞の歌は、『古事記』『日本書紀』神武天皇の条に載る八首の内の二首である。
宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る
我が待つや 鴫(しぎ)は障(さや)らず
いずくはし 鯨(くじら)障る
前妻(こなみ)が肴(な)乞(こ)はさば
立(たち)そばの実の 無(な)けくを 扱(こ)きしひえね
後妻(うはなり)が 肴(な)乞(こ)はさば
いちさかき 実(み)の多(おお)けくを こきだひえね
今はよ 今はよ ああしやを
今だにも 吾子(あご)よ
今だにも 吾子(あご)よ
〔〔意訳:宇陀の高い土地に構えた砦に、鴫をとる罠を張って待っていると、鴫は掛からずに鯨(「鷹ら=くちら」という説も有り)が掛かって大猟だ。
古女房が獲物を求めたら、そばの木の実の様な、中身のない所を削ってやれ。若女房が獲物を求めたら、いちさかきの木の実の様な、中身の多い所を、うんと削ってやれ。
今はもう、今はもう、ああしやを(敵をすっかり打ち滅ぼしてしまった)。今だけでも、今だけでも、わが軍よ、わが軍よ(また敵が現れるかもしれないが、今だけでもすっかり敵を滅ぼしきったと、喜びを込めている)。〕
狩猟民族としての久米部の狩猟生活の一端が垣間見られ、戦勝の素朴な喜びが感じられる。
資料上での久米舞の初見は、天平勝宝四年(七五二)四月、東大寺大仏開眼供養の前段階である天平勝宝元年(七四九)十二月に、宇佐八幡神が入京し聖武太上天皇らが行幸した際、外来の音楽と共に演奏されたものである。平安時代には、即位された天皇が親祭される一代に一度の大嘗祭 豊明節会に、悠紀の舞として盛んに用いられた(主基の舞は吉志舞)。
平安前期、貞観期成立と云われる最古・最詳の儀式書『儀式 践祚大嘗祭儀』の記述には、午の日に行われる節会では、久米舞の舞人は二十人で、二列で舞う旨が記されている。また平安中期成立の儀式書『北山抄』、平安後期成立の儀式書『江家次第』では、舞人二十人、琴工(琴師)六人奉仕の記述が見られる。
久米舞は室町中期の後土御門天皇の頃に途絶え、江戸後期の文政元年(一八一八年)仁孝天皇の即位の時分に、四人舞として再興された。明治十一年(一八七八年)より昭和二十年(一九四五年)までは、神武天皇即位の日とする一月一日を太陽暦に換算した二月十一日の紀元節の賀宴に、豊明殿で演奏されていたという。
今日でも宮中で大饗の儀の際、橿原神宮では例年の祭祀のなかで演奏されている。
楽器は、和琴・篳篥・龍笛で、付歌には笏拍子を使用する。現在の演奏次第は、歌無しで楽器のみが奏する久米歌音取、舞人が入場する参入音声、拍節的なリズムの揚拍子、感嘆の歌詞の意味を持つ伊麻波余・阿阿、舞人が退場する退出音声の順番となっている。揚拍子の後、舞人が抜刀し和琴のみの演奏に合わせて切り伏せる動作をする部分が、邪気を祓う意味合いも含み、特に印象的である。舞人の装束は、末額(まっこう)の冠、赤色の袍に笏、太刀を身に着ける。
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