正定業の成就
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2025-12-12
Просмотров: 1
正定業の成就に関するブリーフィング
エグゼクティブ・サマリー
本文書は、和田真雄氏の論文「正定業の成就」の主要な論点を要約・分析したものである。本稿の核心は、浄土真宗における往生の因である「正定業」が、煩悩を具足した凡夫においていかにして成就するのかという問いに対する深い考察にある。以下に、その最も重要な結論を要約する。
凡夫のための他力念仏: 凡夫は自らの力で清浄な行を成就できないため、阿弥陀如来がその本願によって成就した称名念仏を「正定業」として衆生に廻向した。これが凡夫にとって唯一の往生の道である。
「罪福信」と「非行非善」の論理: 往生の因を自らの善行によって確立しようとする自業自得の考え(罪福信)は、自力のはからいであり、かえって往生の妨げとなる。凡夫が称える念仏は、あくまで如来から与えられたものであり、衆生にとっては自らの「行」でも「善」でもない(非行非善)と理解されるべきである。
成就の非実体性と「信の一念」: 正定業の成就は、一度獲得すれば永続する固定的・実体的なものではない。それは、衆生が自己の凡夫性を徹底的に自覚し、他力に帰命し続ける「信の一念」において、如来の働きとの動的な「呼応」の中で、一念ごとに成就「させられ続ける」ものである。
往生必定の確信の根拠: 往生が定まるという確信は、自己の内面に成就を確認することから生じるのではない。それは、自身が「罪悪生死の凡夫」であるという深い自覚そのものが、如来の「摂取不捨」の働きの中にある証しであると信知することによって確立される。この如来の働きへの信頼こそが、確信の源泉である。
主要テーマの詳細分析
1. 凡夫のための正定業としての称名念仏
本稿は、不浄造悪の衆生(凡夫)が、自らの修行(諸行)によって真実報土への往生の因を確立することは不可能であるという前提から出発する。この根本的な課題に応えるため、阿弥陀如来は易行である称名念仏を「正定業」として選択し、衆生に廻向した。
本願による選択: 称名念仏が正定業たる所以は、善導によれば「彼の仏願に順ずるが故」であり、法然によれば「選択本願の念仏」の故である。すなわち、衆生のためという如来の本願によって選び取られた行である。
万徳円備の功徳: 親鸞は、この称名念仏を「往相廻向の大行」と位置づけ、以下のようにその万徳を讃える。
唯一の往生の因: 凡夫を真実報土へ往生させる行は、この如来廻向の大行以外にはありえない。親鸞は、往生の因果すべてが阿弥陀如来の清浄願心の廻向成就によるものであると断言する。
しかし、単に凡夫が口で称えさえすれば、それがそのまま正定業として成就するわけではない。衆生が自力の心、すなわち「定散心間雑する心」で称えるならば、その念仏は正定業とはならない。
2. 罪福信の陥穽と「非行非善」の論理
論文は、正定業の成就を妨げる自力の心として「罪福信」を深く掘り下げる。
罪福信の問題点: 罪福信とは、善因楽果・悪因苦果という業の道理を信じる心自体を指す。この因果律は仏教の基本原則であり、それ自体は批難されるべきではない。問題は、この自業自得の原理に固執し、他力廻向の念仏を「自らの善根」として、自己の業として確立しようとすることにある。
「非行非善」の論理: この自力心を打ち破るのが「非行非善」という概念である。『歎異抄』第八章には、念仏は行者にとっては「非行非善」であると説かれる。
これは、名号自体は如来によって成就された善であり行であるが、善を行い得ない凡夫にとっては、それは自らの行でも善でもあり得ないことを意味する。念仏は、凡夫が自業として「行ずる」ものではなく、ただ如来の御約束として「たもつ」ものである。
超因果の法: 金子大栄氏の論を引用し、他力による救済は、衆生の因果律を超えた「超因果の法」であると説明される。この超因果の働きを、自業自得という因果の型にはめて理解しようとすることが「仏智を疑う」罪となる。
如来の本願への相応: 曾我量深氏は、念仏を「非行非善」と保つことこそが、行を成就できない凡夫のための念仏という如来の本願に相応することであると説く。その相応の故に、如来のはからいとして無為無漏の善(所行の法体)が成就させられるのである。
3. 正定業の成就プロセス:内因と外縁の関係性
では、非行非善である念仏や信心が、いかにして往生の因となるのか。論文は「両重因縁釈」を用いてそのメカニズムを解明する。
内外因縁和合: 衆生における非行非善の「信心の業識」が内因となり、如来の働きである「光明名号」が外縁となる。この内と外の因縁が和合することによって、初めて報土往生の因が成立する。
摂取不捨の働き: 如来は、非行非善の行信に帰命する衆生を「摂取して捨てたまわず」、この摂取の働きが外縁として能動的に作用することで、衆生の行信が内因としての力を得る。このプロセス全体が「他力」と呼ばれる。
4. 成就の非実体性:「信の一念」と「後念相続」の区別
論文は、この正定業の成就を固定的・実体的なものとして捉えることの危険性を強く警告する。それは再び自力心に陥る罠である。
凡夫のままの往生: 『歎異抄』第九章を引用し、他力に帰したからといって凡夫の性質が変わるわけではないと説く。むしろ、煩悩がなくならないことに悩むことこそが自然であり、変わると思う方が「あやしい」とされる。
固定的理解の批判: 香月院深励が「今迄起りたる煩悩も法徳としてやむようになる」と解釈したことに対し、これは正定業の成就を自己の内で実体的に獲得できると考える罪福信・自力心であると批判する。
「常に信の一念に立つ」: 対照的に曾我量深氏の解釈が支持される。彼は、信心の獲得を一度きりの出来事とみなし、その後は「後念相続」の立場に立つと考えることを誤りだと指摘する。
結論として、正定業の成就は固定的な所有物ではなく、帰命の一念における「衆生と如来の結び付きそのもの」のうちに、常に成就「させられ続ける」動的な関係性なのである。
5. 如来との呼応:常なる自己否定と往生の確信
正定業が衆生と如来の呼応の内に成就するとは、具体的にどういうことか。
真の呼応の条件:
1. 自力心の放棄: 「わがみをたのみ、わがこころをたのむ」自力の心を捨て去ること。
2. 凡夫性の深信: 自己を肯定しようとする心を常に否定し続け、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」であり、「虚仮不実のわが身」であるという現実を、妥協なく見つめ続けること。
成就の場: この常なる自己否定と凡夫性の自覚の上にのみ、如来の計らいとして正定業が成就させられる場が開かれる。衆生が凡夫でしかあり得ない自己を自覚し続けるところに、如来と衆生の真の呼応が生まれる。
確信の根拠: それでは、「現生不退」や「往生必定」という確信はどこから来るのか。それは、自己の内面で成就を確認したからではない。
摂取の事実: 確信は、如来に「摂取してすてたまわざるなり」という、如来の働きかけの事実そのものに由来する。
自覚こそが証し: 如来の摂取の働きは、衆生に自身が「罪悪生死の凡夫」であることを自覚させる働きでもある。したがって、凡夫であると深く信知し、嘆き続けること自体が、如来摂取の内にあることの証しとなる。
この自覚の上に立てば、正定業の成就は、人間の計らいを超えた「仏智の不思議」であり、「他力には義なきを義とす」と、ただ如来の本願を信じるのみとなる。不実なる凡夫がその限界を自覚し続けるところに、如来の大慈悲が働き、煩悩を障とせず、凡夫のまま真実報土へと往生せしめる「無碍の一道」が成就するのである。
Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео mp4
-
Информация по загрузке: