「トニーはもう帰らない」週刊明星 続報
Автор: いわやとし
Загружено: 2024-08-04
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トニーはもう帰らない
赤木圭一郎の死とその前後
もう帰らない日活第三の男赤木――だが彼は第二の”ジェームス・ディーン"としていつまでもみんなの胸の中で生きつづけるだろう。
現代の憂愁(メランコリー)とうたわれた、あの独特の笑顔をうかべながら……。
高校時代の仲良し組が語る在りし日の彼の思い出秘話をはさんで、痛恨と涙につつまれた死の前後数日間の記録をつづっておこう
棺を飾るカウボーイ・ハット
「がんばれ、赤木 ! 」
「赤木さん、死なないで ! 」
そうした祈りの声につつまれながら、コンコンと眠りつづけること163時間あまり……。
だが、すべての祈りはむなしかった。 "奇蹟の生還" "不死身のトニー” を期待した人びとの嘆きをよそに、現代の憂愁(メランコリー)を秘めた両の瞳はかたく閉ざされ、そしてもう二度とひらかなくなった。
時に2月21日午前7時51分。病名は頭蓋内出血、21歳の青春だった。
「すこしやせていたが、とてもいい死顔でした。いままでのうちでも、いちばんいい顔でした」(宍戸錠)
しかし、人なみはずれて大きな彼のからだは、頑強に死を否定するかのように、既製の棺にはおさまりきらなかった。 そこで毛布と白布に包まれたままタンカに乗せられ、午後1時45分、目を泣きはらしたファンたちが待ちかまえる病院(国領の慈恵医大第三病院)の門まで運びだされてきた。
そばにつきそうのは、お兄さんの明氏をはじめ、長門裕之、葉山良二 笹森礼子など。 みんなの頬が涙に光り、ガックリ肩が落ちている。白布に包まれた遺体の胸のあたりにのせられ生前彼が好きだった黒いカウボーイ・ハット、拳銃、 楽器ボンゴ、そしてファンたちからおくられた回復祈願の千羽鶴が涙を誘う。
彼が息をひきとる直前は朝やけに輝いていた空も、いまはどんよりと雲がたれこめ、いまにも泣きだしそうな表情。 やがて赤木の遺体はコバルト色のステーションワゴンに乗せられ、藤沢市鵠沼の実家へ無言の帰宅。
午後2時ころ、久しぶりに門をくぐるトニーを出迎えて、三匹の愛犬がいつまでも悲しそうに吠えたてていた……。
涙を殺して弔い撮影
「……いま (17日午後10時現在)赤木は、昼寝のような安らかな表情で眠りつづけている。熱もすっかり下り坂になったし「ようみんな、すっかり待たせちゃったな」と、元気な声が彼の口からとび出す日も近いだろう。
これは本誌先週号の記事『トニー死なないでくれ』はこう結ばれている。 いくぶん希望的観測が勝ちすぎていたかもしれないが、事実、そのころの彼は助かる公算が大きかったのだ。
18日から19日には、かすかに口をうごかして音声らしきものを発するようになり、ふだんのクセの左手指を鳴らすようなかっこうさえしはじめていた。
ところが20日の午前1時ころから症状が急激に悪化、20日午後5時から危篤状態になり、翌朝3時55分ころには ”絶望” が宣告されたのである。
前夜から枕もとにつきっきりの家族(父俊之、母喜久、兄明、姉泰子、民枝、妹百合、久子さん)や山崎撮影所長など日活関係者の悲願をこめて、ひっきりなしに強心剤がうたれ、酸素吸入器が活動しつづけた。やがて吸入器も用をなさなくなると、早乙女主治医は夢中で自分の唇をトニーの唇に合わせ、最後の奇蹟を祈る口腔呼吸の処置までやっている。
とにかく、すべての関係者は実の肉親を失なったように悲嘆にくれた。遺体をのせたタンカがはこびだされたとき、日活マンが「こういう仮りの棺です。どうか車にはこぶまで写真は遠慮してください。 赤木への最後のハナムケとしてお願いします」と涙声で頼めば、日ごろ非情をもって鳴る報道陣も、シューンとしてカメラを伏せた。
「友人代表としてひとこと」とマイクをむけられた長門が「ほんとにいいヤツでした。思い出がありすぎて、今はなんとも……」と絶句すれば、葉山も「なにしろ彼が倒れる日の朝までいっしょに仕事をしてたんですから……」と、そのままハンカチを顔にあてて男泣き。
だがこの日、日活撮影所では「トニーのとむらい合戦だ」とばかり、悲しみをおして仕事を強行。「ろくでなし稼業」など数組のスタッフやスタア連がセットで活躍していた。しかしみんな、どことなく元気がない。
宣伝部もヒッソリと静まり返り、聞こえるのはひっきりなしに鳴りつづける電話のベルと、これに応待する部員のしめった声だけ。電話をかけてくるファンは「ホントですか、ホントに死んだんですか」と念をおすうちに(15日に「赤木死す」とのラジオの誤報があった)、オロオロ涙声になってしまう。
日比谷の本社でも同様。 石神宣伝部長は「今日だけは仕事の話はよしましょうや」と淋しく首を横にふるし、日ごろ豪腹の聞こえ高い江守常務の、グッタリと重役椅子に沈んで瞑目していた姿が印象的だった。
這ってでも列席したいと裕次郎は……
当日の夕方から夜にかけて、街の女風呂は赤木死亡の話でもちきり。そしてそのころ、鵠沼の赤塚家(赤木の本名は赤塚親弘)では、親族だけの仮通夜がひっそりと行なわれていた。
明けて22日は、午後6時から8時まで、日活関係者など多数の喪服姿が集まっての本通夜――特別製の大きな白木の棺の中で安らかに眠りつづける赤木の遺体にむかい、みんなが最後の別れを惜しんだ。
「赤木さんはとっても健康でよくたべる人でしたから、 ぜった大丈夫と安心していました。意識がはっきりされるまではとお見舞いも遠慮していましたのに……」 と、そのままアゴを黒い喪服の襟にうめて泣きじゃくる芦川いづみ。
そうした姿を、祭壇の上からニッコリ笑って見守る。 セーター姿の赤木の近影。
葉山良二が和田浩治に「おまえも気をつけるんだぞ」と語りかけると、日ごろの不敵のヒデ坊ぶりを忘れたかのよう和田が神妙にうなずく。
宍戸と藤村有弘が、 葬儀委員長の山崎撮影所長の労をねぎらって「ぜんぜん寝てないそうじありませんか」といえば「うん……このトシになると、睡眠薬もきかんのだよ」と、ハッとするような淋しい笑顔だ。
赤木のお父さんが「すべては神の思召しです。 生前は可愛がっていただいてありがとうございました」とのアイサツをすませたころ、「おそくなりまして」と、石原光子さん(裕次郎のお母さん)も参列。焼香をすませたのち、控え室で赤木のお母さんと顔合わせ。 喜久さんのほうから「いかがですか、裕次郎さんは」ときりだせば「はあ、おかげさまで……」といったきり、顔をおおってオエツする光子さんだった。
その様子を遠目に眺めながら長門が葉山にそっと耳うちしていた。「どうしよう。 裕ちゃんが ”明日の葬式にはどうしても出る”ときかないんだけど……」
そのころ噂の裕次郎は、 慶応病院で、松葉杖をついて懸命に歩く練習をしていた。ギブスをはめてからまだ四日目、むろん医者の許可もなしにだ。前日赤木の悲報をきいたとき、ショックのあまり医者の定時の回診もことわって、 マコ夫人にも一言も口をきかず、毛布をかぶって泣いた裕次郎――弟のように可愛がっていた赤木を自分の代役『激流に生きる男』 の撮影中に失った彼にしてみれば、這ってでも式に出席したい気持ちだっただろう。
だが、急に歩く練習をしたため健康な左脚が充血してハレあがったこと、長門たち友人や医師の強い反対、そして「出席しヘンに人の関心をひき、遺族のかたたちに迷惑をかけては……」との反省から、ついに告別式への出席は断念。そのかわり弔辞を書いて長門に代読してもらうことにした。
翌23日、告別式当日の午前に裕次郎を見舞うと「惜しいヤツだったなあ……」と窓のほうをみつめたまま、「映画にかぎらず、これからいろんなことをさせてやろうと思っていたのに……」
まるで放心しきった病床姿だった。
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