第36話 魏使の旅程
Автор: 井上悦文のあさくら古代史チャンネル
Загружено: 2025-09-07
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魏使の旅程が順次説だと、皆さん思い込んでます。これはどういうことかというと、確かに、帯方郡から不彌国までの里程の旅程に続けて、投馬国までの日程の旅程が書いてある、そして、それに続けて、邪馬臺国までの日程の旅程が書いてある。だから、江戸時代から今日まで、みんな、これらが続けて書いてあるんだと思い込んでるから、これを続けて読んだ。
ところが陳寿は続けて書いたんじゃない。これは切れてたんです。本当は全然別の記事なんです。
なぜかといったら、元本を見たらわかる。元本には、投馬国への日程旅程と邪馬台国への日程旅程部分に、一文字書き加わっている。それと、元本の中に、この行程がないものがある。それらから判断すると、全然別の記事だということがわかるんです。
江戸時代から始まったこの順次説の考え方。これが、みんな未だにそれを信じて、誰一人異論を唱えない。本当は、この解釈では邪馬臺国の場所の特定が絶対不可能なんだけれども、それがわかっているからこそ、「南」と書いているのを「東」にねじ曲げて、畿内に持って行ってしまう。
陳寿はそんなことをやってないです。そんなこと書いてないです。
もともとなぜかと言ったら、陳寿は魏志と魏略と、それと呉書を元にして書いたっていうことは、元本をしっかり読めばわかるんです。その魏志倭人伝の元本を見ずに、今までみんな魏志倭人伝だけを、自分はもう何百回読んだとか、だから自分の説は間違いないとか言ってるけど、魏志倭人伝だけを何百回読んでも何千回読んでも、絶対に正解にはたどり着かない。それはなぜかというと、魏志倭人伝の中に間違いがあるから。陳寿は間違えてなかったんだけれども、陳寿の生家で書き写した人が間違えた。だから何百回読んだって、謎の解決にはならない。
謎の解決をするためには、陳寿は元本を書き写したということがわかってるんだから、元本の魏志と魏略と呉書を参考にして、それと、魏志倭人伝を参考にしたと思われる梁書と、それと魏志倭人伝と、これらの四冊~五冊を、同じ横並びにして、並べて書き写してみること。そしたら、魏志倭人伝のこの部分は魏書の中のここを丸写しにしたなとか、そこに今度、魏書の中のここの部分を持ってきてくっつけたな、というのがわかる。
だから、そういうふうにして分析していかないと、魏志倭人伝だけを何百回読んだって、絶対に正解には行き着きません。
当たり前のことなんだけど、なぜか、みんな、元本がありますということを習わなかった。魏志倭人伝には元本がありますよということを、なぜか誰も教えてくれない。そして、大学でも、魏志倭人伝だけを示して、一生懸命これを研究しなさいと言っている。しかし、考えてみれば、その教授たちも魏志倭人伝の原本だけしか見てないから、本当のことがわからなかったんでしょう。
要するに、陳寿は生涯、長官になってませんから、だから陳寿が書いたものは原稿です。陳寿は西暦297年に〇んだ。そして、西暦301年に、陳寿の生家において、著書のすべてを筆者習得せよという、この詔が出された。それで書き写しがされた。だから、そのことをしっかりと理解しておかないといけない。そして、魏志と魏略とを元に撰述しているから、それを横並びに並び替えて、それと、梁書も一緒に横並びに並べて、それらを比較検討したら、そしたら、答えが出てくる。
邪馬台国に行く旅程の中で、魏志には、帯方郡から不彌国までの全部の里程旅程記事が書いてある。ところが魏略には、伊都国までの里程旅程記事しか書いていない、つまり伊都国以降の里程旅程記事は書いてないんです。ということは、不彌国の後に書いてあった投馬国への日程旅程と邪馬臺国への日程旅程記事についても、書いてないということです。
ところが梁書には、帯方郡から水行7000里がついたその地名の狗邪韓国と、それと対馬の名は出てこない。帯方郡を出発したら壱岐につくと書いてある。そして、壱岐から千里で末盧につく、また、末盧から500里で伊都、それから100里で奴国、それから100里で不彌国と、帯方郡から不彌国までの里程旅程記事が書いてある。そして、その後に、投馬国への日程旅程記事と、邪馬臺国への日程旅程記事が書いてある。
ところが、そこに一つ特徴があって、投馬国に至る日程旅程記事と邪馬臺国に至る日程旅程記事には、それぞれの日程旅程記事の各冒頭に、「又」の一字が書き加えられている。
帯方郡から不彌国まで来た、その旅程が里程旅程記事で記されている。ただその次に、魏志倭人伝には、「南至水行二十日投馬国」と書いてある。そして、それが終わったら、今度は、「南至水行十日陸行一月邪馬臺国」と書いてある。
ところが、魏志と梁書の二冊には、日程旅程記事の各冒頭に「又」の一字が書いてある。つまり、「又南至水行二十日投馬国」、「又南至水行十日陸行一月邪馬臺国」と書いてある。ということはどういうことか。それは、各旅程記事の起点が帯方郡になっている蓋然性があるということ。
つまり、ここでは最初に帯方郡からの旅程が書いてあるんです。だから帯方郡から不彌国までの、何里、何里、という里程旅程の記事はもう終わったんです。そして、次に、「又」、今度は、投馬国への日程の旅程記事が書いてあるんです。そして、それもそこで終わったんです。そして、「又」、次に邪馬臺国への日程の記事が書いてあるんです。そのことを理解しておかないといけない。
ところが、今まで、誰もそのことを教えてくれなかった。この「又」の字があるということすら、誰も教えてくれなかった。元本があるということも教えてくれなかったし、その元本には又の字が書いてあるよということも教えてくれなかった。だから、江戸時代から今日まで、みんな勝手に順次説で読んできた。
ところで、この解釈で行くと、不彌国から投馬国まで水行で20日行って、そこから、邪馬臺国まで水行で10日行くわけです。そしたら、そこだけで、水行30日あるんです。
ところが、魏志倭人伝の最初の方を読んだら、邪馬臺国まで、女王の都までは、全部で1万2千里と、はっきりと答えは書いてあるんです、最初にきちんと、1万2千里しかないということが書いてあるのです。
この事からすれば、順次説の解釈というのは、全然別の記事を結びつけてしまっているということ。
そしたら、本当の答えを見つけ出すにはどうしたらいいか。それは、この魏志倭人伝に書いてあるこの言葉を大切にすること。郡から女王国までは1万2千里ですよ。帯方軍から邪馬臺国までは1万2千里ですよという答えが、ちゃんと最初に書いてある。
それから狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐、壱岐から末盧国までには、「度」という字と「渡」という字が混用されてます。ところが、中国人は、「度」も「渡」も同じ意味なんです。だからあれは、「渡る千里」なんです。「海を渡る千里」と書いてあるんです。ということはどういうことかというと、狗邪韓国から千里行ったところに対馬がありますよ。そこから千里行ったところに壱岐がありますよ。そこから千里行ったところに九州の松浦がありますよ。と書いてあるということ。
そのうちで、各「海を渡る距離」が千里ですよということ。狗邪韓国から対馬が千里ですよ。対馬から壱岐が千里ですよ。壱岐から松浦が千里ですよ。そしたら、この千里を足した3000里が、狗邪韓国から末盧国の間の距離ですか?いいえ、違うでしょ。対馬と壱岐の陸地の広さが抜けているでしょ。だから、ここを足さないといけない。この狗邪韓国から末盧国までの間の距離を求めるには。だから、対馬が方400なんです。そして、壱岐が300なんです。陳寿は無駄なことを書いてないんですよ。方300とか方400は、必要だから書いたんですよ。
中国人は空の広さを表現するときは「円」で表現しますということが辞書に書いてある。地面を表現するときには方を使いますと書いてある。「方」というのは一辺の長さ。つまり四角の一辺の長さを「方」という。ということは、ここに一辺の長さの方をもって、その国の土地の広さ(距離)を書いたということ。
ということは、狗邪韓国から末盧国の間の距離は、正解は、1000+400+1000+300+1000=3700になるわけです。これで計算していかないと本当の距離は出てないですよということ。これを今まで、誰も教えてくれなかったんです。だからそれを、しっかりと理解することが大事だと思います。
そしたら、そうやっていくと、ならば、不彌国から女王国の都の邪馬台国までの真の里程距離を求めるためには、「方」を、これを逃しちゃいけませんよということ。
だから、それを計算していくと、帯方郡から不彌国までは、全部足していくと、7000+1000+400+1000 +300+1000+500+100+100、だから、 そしたらなんと11400 になりますよということ。それがわかれば、もう答えが出てきます。
だから、不彌国から邪馬臺国まではどれだけでしょうか。それを求めるには、帯方郡から邪馬臺国までが、1万2千里ということで答えが出ているのだから、その1万2000里から、帯方郡から不彌国までの距離の11400里を引けばいいんです。そしたら、なんと、不彌国から邪馬臺国までは、あと残りの距離は600里しかないですよということ。わずか600里なんです。
そしたら、わずか600里と言ったらどのくらいかというと、唐津から奴国までの距離が500+100ですから600で、それと同じ距離ということ。ということは、宇美町から600里の同心円を描いたところ、そこのどこかに邪馬臺国はありますということ。
そしたら考えてみてください。末盧国から奴国の春日・那珂川までの距離が600里です。ならば、宇美町である不彌国から600里の同心円を書いてみます。それが畿内に行きますか?いいえ、行くはずないでしょう。どんなに逆立ちしたって、畿内に行きませんよ。だから畿内説を言ってる有名な大学の先生たち、何を勉強してるのかなと思ってるんですけどね。
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