(福音朗読と説教のみ)年間第20主日「信仰の理解で対立していてもいつか乗り越えられる」【こうじ神父・取って食べなさい】
Автор: こうじ神父「取って食べなさい」
Загружено: 2025-08-16
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年間第20主日(ルカ12:49-63)「信仰の理解で対立していてもいつか乗り越えられる」【こうじ神父・取って食べなさい】
今日は珍しく主任司祭が説教をして、助任司祭がそれを聞いています。採点をしているかもしれません。たぶん10点満点中4点は減点されるでしょう。まず「長い」ということ、福音朗読の中身からずいぶん遠くまで行っていること、端々に「ドヤ顔」が見えること、共感は得られないだろうという減点4つで6点です。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(12・49)「火」のイメージは「焼き尽くす火」のイメージが大きいと思いますが、私は今日の朗読の中では「聖霊」と受けとめました。そのあとに「わたしには受けねばならない洗礼がある」(12・50)とあります。これがイエス様の「受難と死」を指しているなら、受難と死のあとに投げ込まれる「火」とは、「聖霊」のことではないでしょうか。
「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(12・49)イエス様の願いは、果たして叶えられているのでしょうか。それとも未だ叶えられていないのでしょうか。不信仰な時代、不信仰な人々が、イエス様の切なる願いに水を差している。そうなると未だ叶えられていないのかもしれません。
イエス様の投じる「火」つまり「聖霊」は、すでにこの地上に投じられました。聖霊の照らしを受けて、「信仰は生きるものだ」と理解したグループと、「人は生きるのが先だ。今は信仰まで手が回らない」と考えるグループとは当然対立して分かれます。
一般的にですが、子は父親に反抗して「父のようにはなりたくない」と考えます。嫁もしゅうとめに反対して、「しゅうとめのようにはなりたくない」と考えます。そのように対立して分かれますが、何かのきっかけで、子が親を、嫁がしゅうとめを理解するときが来るのです。それは、何を生きてきたかを理解したときではないでしょうか。
ですから「信仰は生きるものだ」という理解は、信仰を生きてきた世代にとってはすんなり受け入れられるのですが、信仰に付き合わされていると感じている世代にとっては、余計な時間を使い、余計な費用を払わされ、迷惑千万と考えるわけです。
しかし考えてみてください。何を生きるにしてもある程度のお金は必要です。私は今のノートパソコンを使い始めて6年目ですが、買い換えを考えるようになりました。以前のノートパソコンを買うとき、最新のモデルにオプションまで付けて買いましたが、やはり6年ほどで不満を覚えるようになり、現在のパソコンを手に入れました。
説教を書き、それをブログやホームページに反映し、更にはミサの動画を収録してより多くの人に下五島三つの教会のミサ礼拝を届ける。私が司祭として信仰を生きるには、お金の部分も必要と考えています。「生きるためにお金は必要」結局これはどの世界でも共通です。
ある世代は「信仰は生きるものだ」と考え、生きるためにはお金も必要とちゃんと理解してそれぞれの教会の規定に沿ってミサ献金や教会維持費、教区費を納めてくださっています。もちろん、支払が困難な人がいます。少し多めに入れることのできる人がいれば、教会は全体として助かります。なかには次の世代が信仰を生きてくれるために、大きな額を寄附してくださる方もおられます。ちょっとした例では、聖母マリアの被昇天のミサ献金の中に五千円札が一枚入っていました。千円札を二枚、四つ折りにして一人が入れたと分かる献金もありました。
司祭職についても、「司祭職は生きるものだ」と考えている司祭と、「司祭職はあくまで『職務』だ」と考えている司祭がいると私は想像しています。あくまで想像です。そして私も、もっと髪がふさふさしてチャラチャラしていていた時期は、「司祭職は『職務』だ」という意識だったかもしれません。
振り返れば、先輩司祭たちの生き方がダサく見えて、耐えられないと感じる時代がありました。しかし、私が批判していた先輩司祭たちは、司祭職を「生きている」人たちでした。司祭職に命をかけている人たちでした。今、命をかけている司祭たちがどれだけいるか。イエス様が投じた「火」は、その見極めをする「火」になっていると思います。
「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」この私にも、命をかけて取り組みたいことが見つかりました。それは長崎教区のために「正確な洗礼の記録を残すこと」です。2025年版「カトリック教会ハンドブック」を見ると、長崎大司教区の信徒数は57061人となっています。もう既にその四倍が亡くなっているかも知れません。すると長崎教区で洗礼の恵みにあずかった人は、台帳に記録し始めてから28万5千人くらい存在する計算になります。2024年黙想会で話しましたが、洗礼番号53番の次の人の洗礼番号も53番と書かれていたり、所々不正確な部分があるのです。
私は長崎教区の洗礼の記録を正確に残すことを、司祭生活のすべてを賭して成し遂げたいと思っています。私は、働きを理解してくれる協力者をもう一人得ました。大司教様もご存じの方です。その方とこれまで五つの教会、17500人の記録を教区に報告できる所まで来ました
中田神父の司祭生活は75歳まで16年です。5年で17500人ですから、75歳までには5万人の正確な記録を残せるだろうと思っています。もちろん、中田神父のライフワークを理解してくださり、協力してくださる司祭・信徒が更に得られれば、私が生きているうちに28万5千人すべての正確な記録が教区に保管できるようになるでしょう。
私にも、「司祭職は生きるものだ」と理解できる日がやって来ました。愚かな私は理解するのに30年を要してしまいました。イエス様の投じた「火」は、決して消えないものとしてすべての人を奮い立たせてくれます。皆様の中でも、「信仰は生きるものだ」との理解が深まり、そこまでたどり着いていない人との対立もいつか解消され、共に手を携えて信仰を生きていく。各自がそのために奉仕したいものです。
先週お知らせした通り、下五島地区として聖書の一節を標語とすることが決まりました。それはヨハネ14章6節です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」私も、父と子と聖霊による洗礼を受けたすべての人の歩んだ道を、正確に記録し続けていきたいと思っています。
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