阿弥陀の誓願と成就
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2025-12-04
Просмотров: 2
阿弥陀の誓願と成就:親鸞における「誓願一仏乗」の思想
エグゼクティブサマリー
本文書は、小野蓮明氏の論考に基づき、親鸞が『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)において開顕した浄土真宗の核心思想を要約するものである。親鸞の探求の眼目は、末法濁世の苦悩する一切衆生を救済する唯一無二の「真実の仏道」の確立にあった。その結論として示されたのが、阿弥陀仏の本願にのみ依拠する「誓願一仏乗」の教えである。
この教えの核心は、阿弥陀仏の本願の働きそのものである「本願の名号」を信じる(信楽する)ことにより、「煩悩成就の凡夫」であっても、その煩悩を抱えたままの姿で無上の悟り(涅槃)に至ることができるという点にある。この救済は衆生の側の能力や善行によるものではなく、如来から完全に与えられる「回向」の力によるものである。
特に重要な洞察は、仏が衆生を救うために立てた誓願の主体(因位の法蔵菩薩)が、衆生一人ひとりの中に目覚める「信心の主体」として現前するという思想である。したがって、本願の成就とは、遠い過去の客観的な出来事であるだけでなく、「親鸞一人」という個々人の信仰主体の確立と同時に、今この瞬間に実現する現在的な出来事として捉えられる。この思想的帰結として、親鸞は浄土真宗を「大乗のなかの至極」と位置づけた。
--------------------------------------------------------------------------------
1. 親鸞の仏道開顕:苦悩の衆生を救う「誓願一仏乗」
親鸞の畢生の書である『教行信証』は、単なる信仰告白に留まらず、浄土真宗という真実の仏道を開顕した書物である。親鸞の根本的な関心は、仏教の教理や思想の体系化ではなく、末法五濁の時代に生きる一切の苦悩の衆生を救済する真実の道は何か、という一点に集約されていた。
親鸞は、師である法然によって興された選択本願念仏の教えの中に、その真実の道を見出した。そして、この道を「群萌に開かれた一仏乗」であると明らかにした。親鸞は法然の教えをさらに根源的に探求し、本願念仏を「本願の名号」と理解した。そして、この名号を行じ信じる道こそが、あらゆる衆生に開かれた無上の仏道であると開顕したのである。この道を、親鸞は「ただこれ誓願一仏乗なり」と喝破した。
2. 煩悩具足の凡夫と絶対的救済
親鸞の教えは、救済の対象を極めて明確に規定する。それは『大無量寿経』に説かれる「群萌」の現実の姿であり、具体的には以下のように表現される。
「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」
「具縛の凡愚、屠沽の下類」
「惑染の凡夫」
これらの救いがたいとされる衆生が、如来の本願を信じる一点において、そのありのままの姿で救済されると説く。この救済の様態は、逆説的かつ絶対的である。
〇 しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。
〇 能く一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
〇 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
この救済を可能にするのは、衆生の側の努力ではなく、如来からの「往相回向の心行」、すなわち如来の大悲の働きかけに他ならない。如来の本願の呼び声に応え、目覚めさせられた根源的な信(一心帰命の信)において、凡夫は煩悩を具足したまま無上涅槃に至る道が確立されるのである。
3. 阿弥陀仏の誓願:因位(法蔵菩薩)と果位(阿弥陀仏)
阿弥陀仏の本願を理解する上で、その発願者である「因位」の法蔵菩薩と、願を成就した「果位」の阿弥陀仏という関係性が重要である。
法蔵菩薩の発願 法蔵菩薩は、師である世自在王仏の説法によって自己の内なる無明の闇を知らされ、衆生救済のための「無上正真道の意」を発した求道者である。その誓願は、衆生の苦悩を根本から解決しようとする崇高な大乗の菩提心に貫かれている。
我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、この願満足せずは、誓う、正覚を成らじ。… 衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして、法を説きて師子吼せん。
仏の自己限定と生成の道程 親鸞の領解において、阿弥陀仏は衆生を超越した絶対者として存在するだけでなく、衆生の苦悩の場に自ら降り立ち、衆生そのものとなって救済を遂げようとする。仏が仏たる地位を去り、法蔵菩薩として修行する過程を経ることによって、真の仏となる。これは仏自身における自己生成展開の働きであり、本願の内実そのものである。この衆生と一体となって発された誓願であるからこそ、それは「大悲の本願」と呼ばれる。
4. 本願の成就と信心の主体
本願の「成就」は、親鸞思想において極めて重要な概念である。
成就の二重性:客観と主観 本願の成就は、単に阿弥陀仏が正覚を成し遂げたという過去の客観的な事実を意味するだけではない。それは、「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」というように、衆生一人ひとりの上に主体的な信が成立することを意味する。善導はこれを「今現在成仏」と表現した。阿弥陀仏は十劫の昔に成仏したが、衆生の信心が成立する「今」この瞬間に、その成仏が現実のものとして成就するのである。
「親鸞一人」の主体性 この主観的な成就は、『歎異抄』の有名な一節に集約される。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。
本願の真の成就は、「親鸞一人」という根源的な信仰主体の誕生と切り離せない。久遠に成就した本願が「今」成就し、その瞬間に信仰主体としての「私」が誕生するという、同時的・相即的な出来事なのである。
法蔵菩薩と信心の主体の一致 親鸞の最も鋭い洞察は、法蔵菩薩が「発願の主体」であると同時に、衆生に目覚める「信心の主体」でもあるという領解にある。衆生に発起する信心は、如来の「我が国に生まれんと欲え」という願心が衆生に回向され成就した姿であり、両者は本質において一如である。
発願の主体である法蔵菩薩の「我」と、信心を表明する衆生の「我」は、究極的には同一の主体である。法蔵菩薩が、衆生の無明の闇を内側から打ち破り、真の主体として名乗り出てくるのである。
5. 誓願の不可思議と功徳の現前
親鸞は、本願の働きを「誓願不可思議」と表現する。
「不可思議」の定義 「不可思議」とは、仏の大慈大悲の深さが、凡夫はもちろん、弥勒菩薩のような高位の菩薩の思慮をも超えていることを意味する。「仏、仏とのみしろしめすべき」世界である。
不可思議の事実 しかし、この言葉は単なる超越性を意味するだけではない。その思議を超えた無上涅槃の世界(如来の智慧海)が、本願を信じる者の身の上に、現実の事実として生き生きと現前し、開示されることを指す。親鸞はこの事実を和讃に詠んでいる。
弥陀のちかひのゆへなれば 不可称不可説不可思議の 功徳はわきてしらねども 信ずるわがみにみちみてり
功徳の獲得 本願の力を信じる者は、求めることなく、知ることなく、無上の功徳の宝海をその身に満たされる。如来の智慧と慈悲の全てが、信の一念においてその人のものとなり、この苦悩に満ちた現実(穢土)を真に生き抜く力となるのである。
6. 結論:浄土真宗の至極性
親鸞は、この本願の行信の道こそが、一切の苦悩の衆生に分け隔てなく開かれた唯一の道、「一乗」であり、無上の仏道であると示した。衆生は、本願の信において如来と一体となり、如来の無上涅槃の徳を自らの徳として賜る。この領解に基づき、親鸞は次のように断言した。
浄土真宗は大乗のなかの至極なり。
Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео mp4
-
Информация по загрузке: