Francoスペインが報じた日本軍 【第二次世界大戦】日本語字幕付き
Автор: 歴史資料
Загружено: 2018-11-27
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Franco Nodo 1941 1942 1から
日本によるマレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃成功はスペイン国の新聞で熱狂的に受け止められた。ラモン・セラーノ・スニェール外相は祝電を送り、この親枢軸的動きはアメリカの不興をかうこととなった。その結果スペインとの経済交渉が中断され、事実上石油供給を絶たれた。
スペインはアメリカにおける日本の利益代表国となったが、1940年以降セラーノ外相はアメリカに諜報網をめぐらせドイツに益する情報をアプヴェーア(国防軍情報局)に伝達していた。真珠湾攻撃後は日本に益する情報も収集されるようになり、東機関と呼ばれる組織を通じて日本に渡された。
一方でスペインの旧植民地でありスペイン人が多数居住していたフィリピンをめぐり若干の問題が発生した。特に日本の占領当局が英語とスペイン語の使用を禁止したことはスペイン関連機関の反発を招いた。
一方で日本が樹立させたホセ・ラウレルのフィリピン第二共和国を承認はしなかったものの外務省が独立の「祝電」を送った。
戦局が枢軸国不利となった1942年以降両国の関係は表面的には変わらなかったが、フランコはセラーノを解任し、ドイツと連合国の和平仲介の動きに出るようになった。一方で日本の参謀本部も1943年3月に対ソ攻撃を中断して北アフリカとジブラルタル制圧を前提としたスペイン侵攻をドイツに提案したが、拒否されている。この後スペインは慇懃ながらも日本の要求を回避し、徐々に距離をとるようになった。連合国も資源禁輸などでスペインに圧力をかけるなどして諜報網の壊滅に動き、1944年7月には東機関による情報収集も終了した。
さらに1945年1月のマニラの戦いでは、日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれたスペイン人200人以上が死亡、旧市街のスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けた。「この際の日本による対応に抗議する」という名目(実際は日本とドイツの敗北を見越した乗り換え)で、4月12日にスペインは日本と断交した。しかし、日本の影響下にあった満州国および汪兆銘政権との国交は終戦まで維持された。
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