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「不回向の行」の内実

Автор: 本願海濤音

Загружено: 2025-12-26

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本ブリーフィングは、亀崎真量氏の論文「『不回向の行』の内実」を基に、親鸞が『教行信証』「行巻」で提示した「不回向の行」という概念の思想的深層を解説するものである。

親鸞の「不回向の行」は、従来「衆生が自らの力で功徳を振り向けない(自力回向の否定)」という消極的な意味で解釈されてきた。しかし、本論文は、この解釈が親鸞の意図を十分に捉えていないと指摘する。親鸞の真意は、本願念仏という大行が、衆生の行ではなく、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の願行そのものであり、それが衆生の自覚態として現れることを「不回向」という言葉で積極的に表現した点にある。

この論証のため、親鸞が『浄土論註』の文章をいかに引用し、解釈したかが詳細に分析される。特に、衆生の「願生心(浄土に生まれたいと願う心)」は、実は如来の「真実功徳」が衆生の心に現れたものであり、願生の主体である「我」は、法蔵菩薩の仏事と呼応する中で初めて確立されると論じられる。

結論として、「不回向の行」は単なる「無回向」ではなく、「この行は私の自力の行ではない」という、如来の働きに対する深い自覚を示す鍵語である。それは、師法然の「不用回向」の教えの根源に法蔵菩薩の願行を見出し、如来回向の内実と、それによって得られる現生正定聚の自覚がどのようなものであるかを明らかにする、親鸞思想の核心を示す概念である。



1. 問題の提起:「不回向」の従来の解釈とその限界

親鸞は『教行信証』「行巻」において、師法然が説いた本願念仏を「如来回向の大行」と位置づけ、それが凡夫を現生正定聚(この世で救われることが定まった位)に至らせる要であると説いた。その上で、この大行の性質を以下のごとく「不回向の行」という言葉で規定した。

明知是非凡聖自力之行、故名不回向之行也 (明らかに知んぬ、是れ凡聖自力の行に非ず。故に不回向の行と名づくるなり)

この「不回向の行」という言葉は、法然が『選択集』で述べた「縦令い別に回向を用いざれども、自然に往生の業と成る」(あえて功徳を振り向けようとしなくても、自然と往生の因となる)という「不用回向」の思想に基づいている。

しかし、従来の解釈では「不回向」は主に次のように理解されてきた。

「如来より御回向にあづかるので、行者の方よりは回向せぬ」
これは、如来と衆生を相対的に捉え、衆生側の自力による回向を差し挟まない、という消極的な意味に留まる。
この解釈では、衆生にとっては結局「無回向」であると捉えることになり、親鸞がなぜ殊更に「不回向」という言葉を用いたのか、その積極的な意義を十分に明らかにできていない。

本論文は、親鸞が「不回向の行」の論拠として『浄土論註』の文を引用している点に着目し、その引用の仕方を詳細に分析することで、この言葉に込められた大行の内実に迫ることを目的とする。

2. 『浄土論註』引用の分析:称名と願生の根拠

親鸞は「行巻」で、『浄土論註』から複数の箇所を引用し、大行の内実を明らかにしていく。その引用には、親鸞独自の意図が込められている。

2.1. 二道釈と題号釈の連続引用

親鸞はまず、『浄土論註』冒頭の「二道釈」(難行道と易行道)を引用する。注目すべきは、その直後に『浄土論』の題号を解説する「題号釈」の一部を続けて引用し、一連の文として扱っている点である。

二道釈の要点: 濁世において自力で悟りを求める「難行道」は困難であり、仏の願力を信じて浄土往生を願う「易行道」こそが、大乗正定聚に至る道(不退の風航)であると示す。
題号釈の要点: 『浄土論』の「願生偈」は、阿弥陀仏の名号を本体とする教え(無量寿経)に依って作られた「称名の偈」であることを示唆する。

この二つを連続して引用することで、親鸞は大乗正定聚を実現する易行道の核心が「称名」にあることを端的に示そうとしている。

2.2. 「所願軽からず」に始まる一貫した課題

二道釈・題号釈の引用後、親鸞は「又云く」として引用を改め、次の有名な一節から一連の引用を始めている。

又所願不軽、若如来不加威神、将何以達!乞加神力、所以仰告。 (又、所願軽からず。若し如来、威神を加えずは、将に何を以てか達せん。神力を加えたまへと乞う、仰ぎ告ぐる所以なり)

ここでいう「所願」とは、「願生偈」の末尾にある「普共諸衆生、往生安楽国」(普く衆生と共に、安楽国に往生せん)という、全衆生と共に救われたいという大乗の願いを指す。この願いは「不軽」(軽くない)であり、如来の力添えなしには成就しえない。

親鸞がこの一節を冒頭に置いたことは、これに続く『浄土論註』の引用全体が、「この『普共諸衆生』という大乗の願いは、何を根拠として成就するのか」という一貫した課題意識のもとに読解されていることを示している。

3. 称名の内実:「願生即得生」の論理

親鸞は、「普共諸衆生」の願いが成就する根拠を、称名の内実である「願生心」に見出す。その論証は、三念門の解釈と「因縁の義」の分析を通じて展開される。

3.1. 三念門釈:願生心への焦点化

親鸞は『浄土論』が説く五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向)の中から、以下の三念門釈を中心に引用する。

念門 内容 親鸞の解釈のポイント
礼拝門 帰命 「帰命は礼拝なり」としつつ、「礼拝は必ず帰命ならず」と訓読し、単なる恭敬を超えた願生心が帰命の本質であることを強調する。
讃嘆門 称名 「称彼如来名」(彼の如来の名を称す)であり、中心的な行である。
作願門 願生 「願生安楽国」であり、天親菩薩の帰命の意である。

親鸞は、讃嘆門(称名)の解説の結びを次の作願門に連結させるように訓読するなど、三念門の引用の視座が、称名の内実として展開される「願生心」にあることを示唆している。

3.2. 「因縁の義」による「願生」の再定義

続いて親鸞は、「願生」に関する二つの問答を引用する。

1. 第一問答: 「衆生は畢竟無生(本来、生じるものではない)なのに、なぜ往生を願うのか」という問いに対し、「因縁の義」による「仮名生」であると答える。
凡夫の実体的な生: 凡夫が考える実体的な生死は幻(亀毛・虚空)である。
因縁の義: 親鸞がここで確かめようとしているのは、この「因縁の義」が浄土を開く**「仏の因縁法」**を指すということである。
無生の生: この「仏の因縁法」によって開かれる「生」とは、衆生の側で体現される「得生の者の情」であり、「無生の生」という境界である。曇鸞によれば、この境界は、称名によって浄土の荘厳功徳が衆生の「往生の意」として具体化されることで開かれる。
2. 第二問答: 「何を根拠に往生と説くのか」という問いに対し、穢土と浄土の衆生は一でもなく異でもない関係(不一不異)にあると答える。
親鸞は、その根拠を「前念と後念と因と作る」と訓読する。
これは、第一問答の「因縁の義」を受け、願生(穢土)の念が相続していくこと自体が、得生(浄土)の意を持つ、すなわち「願生即得生」であることを示そうとする意図の表れである。

親鸞は、「願生」が「仏の因縁法」によって開示される「得生の者の情」そのものであることを、「因縁の義」という一点に集約して示そうとしている。これにより、「普共諸衆生」という大乗の願いは、この「願生」それ自体に完全に含まれていることが明らかにされる。

4. 願生の主体:「我」と法蔵菩薩の願行

次に、この「願生心」を起こす主体、すなわち「我」とは何かという問題が探求される。親鸞は、「願生偈」第二行の註釈を引用することで、その内実を明らかにする。

4.1. 「真実功徳相」の二つの側面

親鸞は「我依修多羅真実功徳相...」(我、修多羅・真実功徳相に依りて...)の註釈を引用する。ここで重要なのは、「真実功徳相」が持つ二つの功徳の関係性である。

不実功徳: 凡夫・人天の善。有漏心から生じ、虚偽・顛倒である。
真実功徳: 菩薩の智慧・清浄の業から起こる仏事。法性に順じ、虚偽・顛倒ではない。

『浄土論註』によれば、仏(法蔵菩薩)は、衆生の「不実」の相を見そなわし、その衆生を救い「畢竟安楽の大清浄処」を得させるために「真実」の仏事を起こした。したがって、不実は真実から排除される対象ではなく、真実の力用を受ける対象である。

4.2. 「衆生を摂して畢竟浄に入る」という訓読の深意

親鸞は、真実功徳の働きを説明する箇所を次のように訓読する。

摂衆生入畢竟浄故 (衆生を摂して畢竟浄に入る故に)

これは、親鸞が加点した『浄土論註』(聖覚法印所伝本)の「畢竟浄に入らしむる」という訓読とは異なる。この差異は極めて重要である。

訓読 意味合い
入らしむる (加点本) 法蔵菩薩が、不実の衆生を「畢竟浄に入らせる」という**対他的な摂化(利他)**を意味する。
入る (行巻) 衆生を摂すること(利他)と、法蔵菩薩自身が畢竟浄に入ること(自利)とが同体であることを示す。衆生と法蔵菩薩の重層的な関係を表す。

「行巻」の訓読は、衆生を「畢竟浄に入らしむる」ためには、まず法蔵菩薩自身が「畢竟浄に入る」願行を成就させねばならず、両者は不可分であることを示している。法蔵菩薩の願行は、衆生の救済と一体なのである。

4.3. 「我」の内実の発見

この真実功徳相、すなわち名号として働く法蔵菩薩の仏事に依止することは、自らが救済の対象である「不実の自己」であることを自覚すると同時に、法蔵菩薩の願行に乗託することである。

親鸞は三念門釈の引用において、「我一心」の「我」についての問答(邪見・自大ではない「流布語」としての我)を「乃至」で省略した。その一方で、ここで改めて「我依修多羅...」の註釈を引いたのは、邪見・自大を超えた真の「我」は、法蔵菩薩の仏事と呼応する中で初めて確かめられるという意図を示すためである。

「普共諸衆生」という願いの成就は、この「我」の発見において結実するのである。

5. 結論:「不回向の行」の真実義

論文の最終的な結論として、「不回向の行」の内実が明らかにされる。

5.1. 回向の主体は如来である

親鸞は引用の結びとして、回向門から往相回向(自らの功徳を衆生に施し、共に往生を願うこと)の文を引く。しかし、願生の主体が法蔵菩薩であると確かめられた以上、この回向もまた衆生の行ではない。親鸞が和讃で、

如来の作願をたづぬれば 苦悩の衆生をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心おば成就せり

と詠うように、「普共諸衆生」という回向の根拠は、衆生にはなく、ひとえに如来(法蔵菩薩)の「作願」と大悲心にある。

5.2. 「不回向」は積極的な自覚の言葉

以上の分析から、「不回向の行」が持つ内実は次のように整理される。

1. 大行の主体: 本願念仏(大行)は、法蔵菩薩の願行、すなわち如来の行である。
2. 衆生の自覚態: その如来の行が、依止の転換(自力から他力へ)において、衆生の「我」の行として結実する。
3. 「無回向」との違い: それは単に衆生が回向しない「無回向」ではなく、大行が「凡聖自力の行に非ず」ということを自覚的に述べる積極的な表現である。
4. 証文の意味: この証文として引かれる『論註』の「彼安楽国土は...同一念仏にして別道無きが故なり」という句も、行の主体が法蔵菩薩であるからこそ根拠を持つ。

「不回向の行」は、師法然の「不用回向」の教えの根源に、不実の衆生を救おうと働く法蔵菩薩の願行を見出し、その本質を明らかにする言葉である。それは、親鸞が説く如来回向の内実と、本願念仏によって得られる現生正定聚が、どのような自覚として現れるかを示す、極めて重要な鍵語なのである。

「不回向の行」の内実

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