第33話 魏志倭人伝の書体
Автор: 井上悦文のあさくら古代史チャンネル
Загружено: 2025-08-18
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当て字には一つの法則がある。これは絶対に間違えてはいけない法則。それは何かというと、一文字は一音を表現するということ。一文字は一音を表現している。ということは二音を表現してはいけない。一文字で二音に読んじゃいけない。
そしたら、皆さん考えてみてください。邪馬台(ヤマタイ)国といったら二音を発音してしまっていつ。江戸時代からみんな邪馬台国と書いてヤマタイコクと信じ込んできた。嘘ですよ、これ。ヤマタイコクと呼ばないんです、絶対に。なぜかと言ったら、二音節を読んじゃいけない。だから邪馬台(ヤマタイ)国という国は絶対ない。「台」の字を使ってたとしても、ヤ・マ・タ国でなくてはいけない。ヤ・マ・タイ国と、二音節を読んじゃいけない。それを江戸時代からみんなも、そう信じ込んできた。
本居宣長とか新井白石が嘘を言ったら、有名な学者が発表したもんで、誰もそれが間違いですと言わなかった。だから江戸から明治から大正、昭和、平成、令和の現在になっても、まだみんなヤマタイ国と言うけど、あれはヤマタイ国と呼んじゃいけない。邪馬台国という国はない。それを考えておかなければ。
それを、なぜか文部省も宮内庁も絶対に直さない。教えない、本当のこと。それがおかしいところ。本当は、そういう学校教育とかで正しいことを教えなきゃいけないはずなのに、間違いだと分かっていても。おそらく気づいているはずです。大学の教授だったら。音韻学の教授がいるわけですから。それから中国語学科があるんですから。だから絶対に気づいているはず。気づいている人はいるはずだけれども、おそらく言えないんです。言っちゃったら学校の教授でおれなくなっちゃうんでしょうかね。だからみんな口をつぐんで発表しない。それで、口をつぐんで発表しないから、正しいことをみんなが教えられてない。だから間違いをずっと受け継いでしまってる。でも、そんなことじゃいけない。正しいことがわかったら、正しいことに直していかなきゃ。そうしないと、間違いを未来永劫まで言い伝えることになります。そういうことをきちんとしておかないといけないと思うんですけど。でも、なかなか文部省も直さない。文化庁も直さない。宮内庁も直さない。そんな風ですね。
西暦285年の当時の通行書体というのは、これは何かというと、みんなが使っている書体ということです。一般的にみんなが使う書体。それは何かというと、草書体だったということが、もうわかってる。
草書体は、前漢の時代にはもうできている。「前漢」から、「新」ができて、それから「後漢」になって、それから「三国時代」になった。そして「西晋」になって、魏志倭人伝が書かれた。ですけれども、前漢の時代には草書はあった。だから、なんで書かれていたかといったら、ほとんどの人は、草書ばかり書いた。なぜかというと、それまでにあった書体は、篆書と、隷書と、それと草書しかなかった。
篆書というのは、殷・周の時代に主に使われた。なぜかというと、甲骨文字って知ってあります?占いの結果を亀の甲羅に彫ったということは知ってありますが、その亀の甲羅がどこの骨かということは知らない。で、皆さんどこの甲羅だと思いますかって言ったら、みんな背中の甲羅って言う。亀の甲羅というと、背中の方が有名ですから。しかし、背中の甲羅は鼈甲として使って、かんざしとか櫛とかを作るのが背中の甲羅。でも背中の甲羅は硬くて掘れない。そして曲がってる。
だからどこを使うかというと、お腹の方の甲羅を使う。白い甲羅があります。腹の方は白い、あれを使う。それを使うから、亀の甲羅ということで、「甲」。それと、鹿の骨を使う。腕の骨とか細い。だから文字が彫れない。肩甲骨は広い。だから肩甲骨を使っている。で、これが骨ですから「甲骨文字」と言う。その甲骨文字から篆書ができた、これが殷の時代。
周の時代はどうなったかと言ったら、青銅器って聞いたことあります?青銅器はどうやって作るか、銅と鈴を混ぜて、熱を加えて溶かす。そしてそれを鋳型に逃し込む。鉄の場合は鍛造と言って叩いて作っていくけれども、青銅の場合には鋳型に流し込む。で、この鋳型が春日とかから、石に銅鉾とかの型を掘ってて、そこに流し込んで作ったっていうので、だいたい石とかが鋳型に使われてます。
で、中国ではどんな風にしてたかというと、日本では銅矛とか鏡とかが作られたけれども、中国では、器を作ってる。その器の中に、自分の家の由来とか、先祖の名前とか、自分の家の自慢を、鋳型にほっておく。そしてそれに流し込んで青銅器を作る。それが周の時代にやられた。で、これは青銅器に彫ってますから、「金石文字」と言う。
金石文字の「石」は、秦王始皇帝が石に彫ったのを中国の全土に残してます。だから石に彫ったものもあるから、金石。金属、青銅器と石に彫られているから金石文字と言う。
篆書は、この甲骨文字から始まって、そして金石文字に進んでいく。これが篆書。これが、次の時代の秦になると。秦の始皇帝の方の秦。
なんで始皇帝って言うのか。それまでは、国王。いろんな国の国王。ところが、この始皇帝が初めて、秦の王様だったのが、いろんな周りの国を滅ぼしていく。そして中国全土を、だいたい支配することになる。そしたらその時に、他の国には王様がいるけど、王様より自分は上だということで、皇帝というものを作り出した。名前を。それで初めての皇帝ということで、始皇帝。
始皇帝が怖かったものは何かわかりますか。始皇帝が、怖くてたまらないものがあった。それは何か、タヒです。だから、始皇帝のいろんなやったことでタヒが怖かったということがわかる。あれだけの万里の長城を作らせた。それはなぜかというと、匈奴とか北狄とか、いろんな外敵が北から入ってきたり、西から入ってきたりすると、一番に自分の首がはねられる。だから自分がタヒぬことになるから、それが怖かった。だからあれだけの守りをさせた。
始皇帝の墓はどういう風になっているか、いろんな仕掛けがあって、例えば中に入ろうとすると、矢が飛んできて、突き刺さってタヒぬ、いろんなことがやられているんだそうです。そして、その始皇帝の墓の中には、水銀の川があるんだそう。なぜかというと、ある方士、つまり、まやかしを言うような人たちが、始皇帝に不老不死の薬があると言って話をしてる。そしたら、始皇帝はそのどんな薬だって言って、薬を配合する人に聞く。そしたらその人が、水銀が不老不死の薬といって教える。だから始皇帝は、自分の食べ物の中に毎日少しずつ水銀を入れてもらってた。それで結局早死にする。水銀って中毒を起こします。水銀って猛毒です。だから始皇帝は早く死んじゃった。
安房宮って聞かれたことありませんか?安房宮という大きな城を作っていた。で、そこに、5000人とも言われる女の人たちを匿おうとしてた。なぜかというと、自分の子孫を、DNAを残そうとした。そうすれば自分の遺伝子はずっと残っていく。そういうことまで考えていた。
それから、始皇帝の墓には兵馬俑がある。何千というその兵隊とかいろんな農民とかが並んでる。あれはなぜか。蘇った時に一人だったら寂しいから。だから、その時の周りの人たちをみんな一緒に残しておきたかった。だから兵馬俑を作ってる。そういうふうに考えたら、やっぱりタヒぬことが怖かったんです。
なぜタヒぬことが怖かったかというと、もともと始皇帝は、おじいちゃんは秦の国の王様。ところが昔、日本でもそうですけど、人質として敵国にやる。わざとそういうふうにして、人質として趙の国に送られてた人の子供。だから秦の国の王様の孫に当たる。
そしたら、おじいちゃんが、こともあろうに、その趙の国を滅ぼそうとする。自分の息子を人質にやってるところを攻撃する。そしたら趙の国は、いくら人質としてもらってても、攻撃してくるような人の息子だったら必要ない。だからタヒそうとする。そしたらその時に父親は、手引きをしてもらって、国を逃げ出して自分の秦の国に戻る。
ところがその時に、急いで逃げてるから、始皇帝と母親は置き去りになってしまう。そして、そのいろんな刺客が放たれる、敵国の孫と敵国の嫁ですから。だから、刺客がどんどん放たれる。それを隠れてずっと逃げ回って、最終的には無事に秦国にたどり着く。幼少期にそういうタヒの恐怖を味わってるから、だからこそトラウマになってる。それで始皇帝はあんなにタヒが怖くて。そして最終的には、不老不死の薬を探しに行けと、徐福を派遣する。だから、なぜ徐福を派遣したかと言ったら、不老不死の薬が欲しかった。自分の命が永遠でありたかった。
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