実は隠された罠だった!「長篠の戦い」信長vs最強の武田軍 まるで城のような連合軍陣地
Автор: かいのすけ 歴史
Загружено: 2021-12-28
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合戦解説に使用している図【出典:国土地理院ウェブサイト加工作成】
1573年、武田信玄は遠州三方ヶ原で徳川家康と戦い、これを破ります。信玄に本拠浜松城近くまで攻め込まれ滅亡寸前となった家康ですが、間もなく信玄が急死し武田軍が本国へ引き上げたことにより、何とか息を吹き返します。
その後、家康は手薄となった武田領国に進出します。その中で(1573年8月)武田に味方していた奥三河の奥平貞昌(後の奥平信昌)から徳川方へ再属したいという申し出があり、喜んだ家康はこれを認め、貞昌を武田家より奪還したばかりの長篠城に入城させます。これによって再び武田に寝返ることができない貞昌は、長篠城を必死に守り抜くことになります。
信玄の死後、武田家の後継者となった勝頼は、再び遠江・三河を掌握するための反撃を開始。1575年4月に大軍を率いて三河に入り、奥平貞昌の守る長篠城を包囲します。
信玄の死から2年、徳川家康の同盟者である織田信長は畿内に勢力を伸ばし、もはや単独で対抗できる勢力はまわりにいない状態でした。この強大な力を持つ信長と敵対する武田勝頼は、時間が経てば経つほど織田と武田の国力に差がつくのは明らかで、毛利や本願寺など信長に敵対する勢力がいるうちに主力決戦を行い、その後の戦いを有利に進めたいと考えていたのかもしれません。
一方、畿内を掌握しつつある信長は、さらに勢力を拡大したのち武田領国に攻め込めばよく、この時点で勝頼と全力で戦う必要はありませんでした。同盟者家康の領国である長篠城に勝頼が攻め込んできても追い返せばそれでよく、また信長自身が出陣すれば家康に対する義理も果たすことができます。万が一武田軍と合戦することになっても負けなければいいわけで、勝頼が攻撃してくれば安全な方法で迎撃するつもりだったのでしょう。
武田・織田の大国に挟まれた徳川家康は、この機会に是非とも両者に合戦を起こさせ、信長の強大な力をもって武田軍に強烈なダメージを与えたいと思っていました。畿内を掌握しつつあるとはいえ、周りに多くの敵を抱えている信長が、大軍を率いて援軍に来てくれる機会はそうそうないと考えていたのでしょう。
この三者三様の思惑を抱えながら長篠合戦の幕は開けていきます。
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