信楽の一念について
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2025-12-10
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本稿は、稲葉秀賢氏の論文「信楽の一念について」の核心的な主張と論点をまとめたものである。論文の主眼は、浄土真宗における「他力回向の信心」が、パスカルが述べたような不確定要素を伴う「賭け」とは本質的に異なる、絶対的な確信であることを論証する点にある。
信心は、個人の智慧や才覚によって獲得される「自力」のものではなく、如来の「願心」から与えられる「他力」のものであると定義される。この信心が発現する「一念」は、単なる時間的な一点ではなく、疑いのない絶対的な宗教的自覚を指す。この自覚を得た者は、現生において「摂取不捨」の利益にあずかり、必ず仏になることが定まった「正定聚」の位に入る。
この確信は「慶喜心」として体験され、不安や疑慮を内包する「賭け」とは対極に位置する。論文は、他力の信心が、如来の絶対的な智慧と慈悲への信頼から生まれる、揺るぎない決定往生の自覚であり、報恩感謝の生活へと繋がる具体的な力となることを結論付けている。
1. 序論:他力信心は「賭け」ではない
論文は、パスカルの「信仰は賭である」という命題を起点に、真宗の他力信心が「賭け」と解釈されうることへの問いから始まる。この見解に対し、宗祖・親鸞の聖教に依拠して、両者が根本的に異質であることを明らかにすることを目的とする。
「賭け」の心理には、本質的に以下の要素が含まれる。
疑慮と不安: 結果が不確定であるため、常に疑いと不安を伴う。
自己の決断: 不確定な状況に対し、自己を投げ出すという主体的な決断が中心となる。
決定心の欠如: 決断はあっても、救済が確実であるという「決定心」はない。
これに対し、論文が明らかにする他力信心の特質は、以下の点で対極的である。
決定往生の確信: 如来の願力により往生が定まっているという絶対的な確信。
慶喜心: 疑いや不安がなく、救われる喜び(慶喜)に満たされている。
如来の決断: 信心は自己の決断ではなく、衆生を救うという如来の側の決断が衆生に受け取られたものである。
2. 信心の起源:自力から他力回向へ
他力信心が「賭け」と異なる根源的な理由は、その起源にある。信心は人間の内から生じるものではなく、如来から与えられる(回向される)ものであると、論文は繰り返し強調する。
如来選択の願心
宗祖・親鸞は『教行信証』「信巻」において次のように述べている。
「夫れ以れば、信楽を獲得することは、如来選択の願心自り発起す」
これは、信楽(信心)の獲得が、ひとえに如来の選び取られた本願の心から生じることを示している。念仏が他力の行である以上、その行を受け入れる信心もまた他力でなければならない。ここに人間の計らい(自力)が入り込む余地はない。
法然聖人の教え(『歎異鈔』より)
この「信心は他力である」という思想は、『歎異鈔』後序に記された法然聖人と弟子たちの逸話によって具体的に示される。
自力の迷心: 法然の弟子たちの間では、各自の智慧や才覚の深浅によって信心の深さも異なると考える者がいた。これは、信心を自らの力で獲得するものと捉える「自力の迷心」であった。
法然の結論: これに対し、法然は次のように明言した。
「法然聖人のおほせには、源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり」
この言葉は、信心が個人の能力に依存するものではなく、如来から等しく賜る普遍的なものであることを示している。したがって、信心の根拠は人間側にはなく、完全に如来の側にある。
3. 「一念」の二つの解釈
信心が発現する瞬間は「一念」という言葉で表現される。論文は、この「一念」を二つの側面から解釈し、それが物理的な時間の一点ではなく、疑いのない絶対的な自覚であることを論じる。
解釈一:時尅(時間)における「一念」
「一念」は物理的な時間(実時)ではなく、回心の事実を時間的に表現した**自覚的時間(仮時)**である。
曇鸞の『論註』では、「念」を「業事成弁を明かす」ものと定義しており、これは単なる時間の経過ではなく、宗教的な事実の成就を指す。
『一念多念文意』には、「一念といふは信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり」とあり、信心獲得の決定的瞬間を指す。
もし「一念」が物理的な時間であれば、それは過去の記憶となり、往生という大事に対する継続的な確信とはなり得ない。そうではなく、「一念」は常に現在する「不覚の覚」としての往生一定の自覚そのものである。
解釈二:信相(信心のあり方)における「一念」
「一念」は、信心のあり方(信相)から見れば、疑いのない状態を意味する。
『信巻』には、「一念と言うは、信心二心無きが故に一念と曰う、是を一心と名く」とある。
「二心無き」とは、疑いや計らいが全くない状態であり、「賭け」のように疑慮の中で自己を投じる行為とは正反対である。
この信心は、自己の決断ではなく、「彼の願力に乗じて定んで往生を得」という如来の決断への絶対的な信頼から生じる「決定心」である。
4. 信心の智慧と救済の確実性
信心によって得られる智慧もまた、人間的な才覚とは次元を異にする。それは如来の智慧を聞き信じることによって得られるものである。
聞信と仏智の獲得
「信心開発」の「開発」とは「聞き開く」ことであり、阿弥陀仏の大悲願心を聞き開くことによって、広大無礙の仏智を獲得することを意味する。この智慧は法蔵菩薩の願力の徹底によって成就するものであり、人間の側の能力ではない。
如来の智慧(光明無量)
如来の智慧は「光明無量」と表現され、その本質は「凡ゆる衆生の業縁関係を知り尽す」ことにある。
知ることと一体化: 科学的知識が私意を排して対象と一体になるように、真に「知る」とは相手と一体になることである。
如来の全知: 人間の智慧には限界があり他者を完全に知ることはできないが、如来の智慧には限界がなく、一切衆生を知り尽くしている。
救済の確実性: 全てを知り尽くしているからこそ、いかなる罪悪も許すことが可能となる。救済の確実性は、衆生の側ではなく、この如来の願心の側にある。
「聞く」ことの本質
したがって、「聞く」という行為は、衆生の能力によるものではなく、如来の側からの働きかけである「回向」を受け取ること(あずかること)に他ならない。
5. 信心の利益:摂取不捨と正定聚
他力回向の信心を得た者には、現生において具体的な利益がもたらされる。
摂取不捨の利益
信心が定まると、「摂取不捨の利益」にあずかる。これは、阿弥陀仏の光明(心光)に常に照らされ、決して見捨てられることなく守られている状態を指す。
「我亦在彼摂取中、煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我身」 (われまたかの摂取のなかにあり、煩悩、眼を障へて見たてまつらざれども、大悲、倦むことなくしてつねに我が身を照したまふ)
親鸞はこの文を解釈し、「つねにてらすといふはつねにまもりたまふとなり」と述べ、摂取の光明が絶え間ない守護であることを明らかにしている。
正定聚への住位と即得往生
摂取不捨の利益は、具体的には「正定聚の位に住する」こと、すなわち「不退転の位」に定まることとして現れる。これは「即得往生」と呼ばれる。
即得往生の意味: 信心を得たその時、その場所で往生が決定することを指す。死後の往生を待つのではなく、現生で不退転の位に定まることそのものが「往生を得る」ことである。
『一多文意』:「真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取してすてたまはざるなり...おさめとりたまふとき、すなわち、とき日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを往生をうとはのたまへるなり」
慶喜心と現生十益
これらの利益を得た結果として、心には「慶喜心」が生じる。「慶」とは「うべきことをえてのちによろこぶこころ」、「喜」とは「こころのうちにつねによろこぶこころ」である。この喜びの具体的な内容が「現生十種の益」として体系化されている。
6. 結論:賭けとは異なる決定往生の自覚
論文は、他力回向の信心が、不安と動揺を伴う「賭け」とは全く異なるものであることを結論付ける。
信心の本質: 信心は「凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり」とされ、如来の心が衆生に与えられたものである。この仏心の働きによって成就するため、それは「金剛堅固」であり、揺らぐことがない。
正定聚と滅度の関係: 正定聚の位にある者は、滅度(涅槃)を「うべきことをえた」のであり、「如来と等し」とまで言われる。これは、衆生が偉大になったのではなく、如来の仏性が回向されているからに他ならない。
信心の具体的現れ: この決定往生の確信と喜びは、観念的なものではなく、具体的な生活の中に現れる。
『浄土真要鈔』:「往生のさだまるしるしには、慶喜のこころおこるなり、慶喜のこころおこるしるしには報恩謝徳のおもひあり」
このように、信楽の一念は、如来の絶対的な救済への信頼から生じる慶喜の自覚であり、それが報恩感謝の生活を動かす力となることが示されている。
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