王であるキリスト「感謝して、信頼していただく御聖体」【こうじ神父・取って食べなさい】
Автор: こうじ神父「取って食べなさい」
Загружено: 2025-11-22
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王であるキリスト(ルカ23:35-43)「感謝して、信頼していただく御聖体」【 こうじ神父・取って食べなさい】
王であるキリストの祭日を迎えました。日曜日9時ミサでは、三名のお子さんが初聖体を受けます。担当のカテキスタのシスターが準備してくださって、おそらく「御聖体にはどなたがいらっしゃいますか?」「イエス様がいらっしゃいます」「主の祈りを唱えてみてください」「天におられるわたしたちの父よ・・・」くらいの想定問題は考えていると思いますが、残念ながら今年は違う質問をする予定にしています。質問は「聖体拝領の前に唱えることばを言ってください」です。
答えは「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」これは質問としては相当難しいと思います。たぶん、司祭生活33年、こんなに難しい質問をしたことはないです。ですからこの質問に答えて初聖体を受ける今年の三人は、特別優秀だという証しになると思います。
さて、お集まりの皆さんにも、関係がある質問をしますが、聖体拝領の前に司祭は何と言っているでしょうか。答えは「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」ですね。私はこれを、「九つ目の幸い」と呼びたいと思います。すると当然、「ほかに八つの幸いがある」ということになりますね。思い当たるでしょうか。
それは、マタイ福音書の5章、あるいはルカ福音書の6章に紹介されている幸いのことです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(5・3)ここから始まる、イエス様だけが与えることのできる幸いです。聖体拝領する直前に、「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」と高らかに宣言しています。初聖体を受け、毎週聖体を拝領する。そのことで、もう一つの幸いにあずかるわけです。
もう少し言わせてもらうと、「神の小羊の食卓に招かれた人」は幸いです。「招かれた」という言葉を見落とさないようにしましょう。招待を受けたのであって、何か当然の権利として受けるわけではないのです。招かれたことのある人は経験があると思いますが、招いてくれた人に喜んでもらえるように、少なくとも招いてくれた人に失礼にならないように、整えて来るのではないでしょうか。
それは感謝とか、信頼とか、謙遜の心を整えてくるということです。「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」ここに私たちの準備のすべてが込められていると思います。
王であるキリストが、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と招いています。私たちを神の国の宴席に招いてくださいます。初聖体の子どもたちには「神の小羊の食事に呼ばれた皆さんは、とっても幸せです」と招きます。感謝して、信頼していただく食事・御聖体は、はたしてどんな味がするのでしょうか。
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