懺悔の鏡に照らされて―善導大師『広懴悔』より (ショート法話632)
Автор: YouTube仏教法話 北海道岩見沢市・幌向善光寺 ~北の寺からch~
Загружено: 2026-01-09
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北海道岩見沢市幌向 浄土宗西山禅林寺派「善光寺」 大久保瑞昭住職による短時間で聞けるショート法話です。 #仏教 #浄土宗 #西山派 #法話 #お経 #念仏 #北海道 #岩見沢 #幌向
※当・善光寺は、檀家さんより、年間、維持費として一万円、十夜法要への寄付金として五千円~をいただいております。
※当・善光寺では、いったん檀家になり、それを辞める場合でも、他の多くの寺院と同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
※随時、御朱印を承っています(要予約)。
善導大師の『往生礼讃』は、『六時礼讃』とも言われ、一日を六時に分かち、往生を讃える礼讃文を収められたものです。
その『晨朝礼讃偈』は、文字通り朝に称えられるお経で、私たちの朝のお勤めでは、加えて「広懴悔」をお称えすることになっています。
その「広懴悔」の最初は、「至心懴悔。敬白十方。諸仏十二部経諸大菩薩。一切賢聖。及一切天龍八部。法界衆生。現前大衆等。証知我(某甲)。発露懺悔。従無始已来。乃至今身。殺害一切三宝。師僧父母。六親眷属。善知識。法界衆生。不可知数。…」となっています。
この意味は、「至心に懴悔し奉る。敬って白す。十方の諸仏、十二部経、諸大菩薩、一切の修行の進んだ聖者及び一切の天、龍、八部の神々、全世界の衆生、現前の大衆など、私某甲(それがし)を証知、たしかにお知り下さい。
包み隠さず懴悔いたします(発露懺悔)。私は、無始よりこのかた、乃至、この身に至るまで、一切の三宝(仏・法・僧)・師僧・父母・六親眷属(親類縁者)・善知識(仏法に導く者)・全世界の衆生を殺害すること、その数を知るべからず」ということです。
この私は、初めの分からない昔から、今現在に至るまで、仏法僧や師匠や父母や親せきや仏法に導いてくれる人や世界の人々を殺害することは、その数は知ることができないくらいに多い。
もちろん、そのような行為を実行に移すことはないけれども、本来は、「自己中心」という煩悩を抱えているこの私なのだから、自分のためなら、何でもしてしまうものなのだ、この私はそういう人間なのだ、ということなのです。
この私は、あらゆる仏法僧や師僧や父母等も殺しかねない、そういう自己本位な煩悩を抱えたままの凡夫なのだ、ということなのです。
この自分を「煩悩を持つ凡夫なのだ」と知らせていただくために、この「広懴悔」をお称えするのです。
自分の姿を自分で見ることはできません。
鏡に映してしか、自分の姿を見ることはできないのです。
その鏡も、自分を実際以上に綺麗に映すものではなく、「広懺悔」の鏡は、私たちの「本当の姿」すなわち「煩悩を抱えたままの凡夫」であると、私たちを映し出すのです。
もちろん、阿弥陀仏は、お念仏によって、全ての衆生を往生させる仏さまです。
私たちが往生するためには、何の条件も必要ありません。
阿弥陀仏は、この私を、この「煩悩を抱えたまま」で往生させて下さいます。
そうして、念仏を称え、仏の道を歩ませて下さるのですが、この「私」というのは、「自分中心」という「煩悩」を抱えた凡夫なのです。
ですから、お念仏を称えている時は、仏さまのような気持ちになることができるのですが、「自分が中心」という煩悩を抱えているために、やはり「自分」を優先してしまい、「仏さまのような気持ち」は、長くは続かないのです。
或いは、この「自分」というものは、何事も「自分」を優先させて、少しのことでも、「自分のもの」「自分の手柄」と思ってしまう。
だからこそ、そのような「本当の自分」を確認し、「本当の自分」に立ち返らせて下さるものが、「懺悔文」なのですね。
善導大師が返す返すも「驕慢の心(自ら高ぶり、他人を軽んずる)」を、戒められました。
朝に、「凡夫」である自分に立ち返ることで、その日一日を、驕り高ぶることなく過ごせるように注意を向けていきたいものですね。
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