秩父神社 埼玉県秩父市番場町(ばんばまち) no.0008
Автор: もめむみま
Загружено: 2025-12-09
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秩父神社
埼玉県秩父市番場町(ばんばまち)
no.0008
武蔵国秩父郡の延喜式内社
秩父神社に比定され
国司から幣帛を賜る
国幣小社の社格であった
また武蔵国四宮でもあり
武蔵国総社で一宮から六宮までを
合祀する大國魂神社でも
お祀りされている
なお大國魂神社では
一宮・小野神社 二宮・二宮神社
三宮・氷川神社 四宮・秩父神社
五宮・金鑚(かなさな)神社
六宮・杉山神社となっており
氷川神社が年月を経るなかで
三宮から一宮に昇格したと
考えられている
また7世紀後半〜8世紀前半(650〜750年)
頃に成立したとされる令制国の
武蔵国に合併されるまでは
当地は知々夫国であったため
知知夫(ちちぶの)国一宮とも言われた
平成18年(2006年)には
全国一の宮会から
「知知夫国新一の宮」に認定された
御祭神は
八意思兼(やごころ おもいかねの)命
知知夫彦(ちちぶひこの)命
天之御中主命
秩父宮雍仁(やすひと)親王を
お祀りしている
『先代旧事本紀』の
「国造本紀(くにつみやつこの もとつふみ)」
によれば
第10代崇神天皇の御代に
八意思兼命の10世孫とされる
知知夫彦命が知知夫国造に
任命されたという
その際に八意思兼命と見られる
「大神を拝祠」したとされ
後に知知夫彦命の9世孫にあたる
知知夫狭手男(ちちぶの さでお)により
第19代允恭天皇の御代(412〜453年)に
知知夫彦命が合祀されたという
また当社南側の参道は
武甲山(ぶこうさん)正面にあたり
武甲山を神奈備として遥拝する
聖地だったとも考えられている
なお知知夫国が
「秩父」表記になった年代は不明だが
秩父の初見は
『続日本紀』の慶雲5年(708年)に
和銅が発見された記事によるものと
される
その後、武蔵国への併合を経て
当地の豪族の力が弱まると
当社も衰微したと考えられている
しかし天慶年間(938〜947年)
平将門と常陸大掾にして
鎮守府将軍の平国香が戦った
上野国の染谷川合戦において
将門の叔父である平良文が国香に加勢する
その際に平良文は
群馬郡花園村(現・高崎市)の
妙見菩薩の加護を受けて
将門軍を打ち破ったとされる
そして平良文が秩父に居を構えると
妙見菩薩を当社境内に勧請し
鎌倉時代には本殿に合祀され
明治の神仏分離まで長らく
秩父大宮妙見宮として
知られることになった
江戸時代の絵図には
境内中央に妙見社が鎮座し
それを囲む小さなお社として
知知夫彦命をお祀りする
「神宮司社」が描かれている
なお平良文は後に下総国に移転し
その子孫は千葉氏一族となり
千葉神社に代表される
妙見信仰が崇拝された
また平良文の孫・将恒は
秩父平氏の祖となって
妙見信仰を受け継ぎ
後裔には豊島氏、小山田氏
江戸氏、畠山氏などを輩出している
ちなみに妙見菩薩とは
インド発祥で衆生救済を行う菩薩と
中国・道教の北極星・北斗七星信仰が
習合した仏教的な存在とされ
一説には自らの位置を星で確認する
騎馬民族や海洋・水上民族が
信仰したとも言われる
当社本殿は北面しているとも言われ
本殿北側には北極星を見つめ
知恵の神・八意思兼命を象徴する
「北辰(ほくしん)の梟(フクロウ)」
が彫り込まれている
江戸時代には
現在、廃寺となっている
母巣山(ははそさん)蔵福寺が
別当寺的に奉仕したという
蔵福寺は秩父札所の
15番であったが廃寺となったため
現在は母巣山少林寺が
15番札所となっている
ちなみに当社境内にある
鎮守の森は
柞(ははそ)の森と呼ばれる
そして明治の神仏分離令により
妙見菩薩は天之御中主命となり
社名も秩父神社に戻された
また明治17年(1884年)の秩父事件では
フランス・リヨン生糸取引所の暴落により
養蚕業が盛んな秩父経済が
打撃を受けたため蜂起した秩父困民党が
当社境内に集結したという
当社御祭神の知知夫彦命は
養蚕業や機織を伝えたとも言われ
現在も秩父銘仙と呼ばれる織物が
有名な地であることから
困民党と知知夫彦命が当社で出会ったのは
必然だったのかもしれない
また神奈備である武甲山からは
当社や近隣の秩父今宮神社に
伏流水が湧出し
特殊神事「御田植祭」の重要なテーマ
ともなっている
御田植祭では
水の神である竜神がワラで造られ
今宮神社で水乞い神事を行い
秩父神社に戻って苗代作りなどの
稲作の作業過程を演じる
神事が行われる
この他、祇園祭である
秩父川瀬祭や
御柱を曳く番場町諏訪神社祭礼など
祭礼は数多く
12月には壮大な秩父夜祭りが
開催される
秩父夜祭は
絹の取引で栄えた当地を反映する
大規模な祭礼で
京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並び
日本三大曳山祭とされる
その起源は神社建立以前の
神奈備・武甲山にまつわる神事で
その年の収穫を祝うとともに
頂いた伏流水を武甲山に還す祭
とも言われる
また真夜中に神事が行われるのは
武甲山の男神である
蛇神・蔵王権現が
秩父神社の女神・妙見菩薩と
一夜限りの逢瀬を交わすため
とも言われる
武甲山の男神の正妻は
番場町諏訪神社の八坂刀売命とされ
「番場町諏訪渡り」の祭礼で
正妻から逢瀬の許可を得るとともに
御神幸祭では
諏訪神社を通る行列は
正妻の怒りを買わないように
演奏を止めるとされる
そして壮大な山車(だし)は
釘を使わずに組み立てられ
中近笠鉾、下郷(したごう)笠鉾
宮地屋台、上町屋台、中町屋台
本町(もとまち)屋台は
国の重要有形民俗文化財に指定されている
また秩父夜祭自体も
国の重要無形民俗文化財であり
全国33件の「山・鉾・屋台行事」として
ユネスコの文化遺産に指定されている
山車の起源は
寛文年間(1661〜73年)頃とされ
6日間続く六日祭の別称から
往時の秩父の繁栄が偲ばれる
境内社には全国の一宮と
それに準ずる神社がお祀りされる
天神地祇社のほか
東照宮、天満天神社、日御碕社
柞(ははそ)稲荷神社のほか
イザナギの禊から生まれた
禍津日(まがつひの)神をお祀りする
禍津日社が鎮座し
災厄を正してくれるとされる
なお江戸時代の当地は
秩父郡大宮郷だったと見られ
忍(おし)藩が2,338石支配したほか
秩父神社領が57石
今宮神社領が10石
広見寺領が10石
あったという
また当社は近代皇室とも
ゆかりが深く
明治38年(1905年)に竹田宮恒久王が
初めて皇族として秩父郡を訪れた際に
境内に松を手植えされたという
そして昭和天皇の弟で
当地ゆかりの宮名である
秩父宮雍仁(やすひと)親王が
昭和28年(1953年)肺結核で薨去すると
同年、当社の御祭神として
合祀されている
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