「便同弥勒」と「与如来等」の辨析
Автор: 本願海濤音
Загружено: 2025-12-09
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「便同弥勒」と「与如来等」に関する考察
要旨
本稿は、稲葉秀賢による論文「『便同弥勒』と『与如来等』に就いて」を分析し、その核心的主張を要約するものである。筆者は、親鸞聖人(宗祖)が「弥勒に同じ(同)」と「如来に等し(等)」という言葉を意図的に使い分けたと論じる。この区別は、単なる習慣ではなく、他力信仰の内的構造を深く示すものである。
その論理的根拠として、筆者は「同一性」と「相等性」という哲学的範疇を導入する。
1. 便同弥勒(弥勒に同じ): これは「同一性」の範疇に属する。信心の人は、歴史的存在としての弥勒と同一になるのではなく、弥勒が象徴する「等正覚」という位(状態)と同一になることを意味する。これは、信心獲得の瞬間に救済が完成するという直接的で絶対的な体験(構成的範疇)を表す。
2. 与如来等(如来に等し): これは「相等性」の範疇に属する。「等しい」という言葉は、二つの異なる対象(煩悩具足の凡夫と完全な如来)を比較する判断(反省的範疇)である。信心の人は、現実には罪深い凡夫であるが、必ず仏になることが定まっているという点において、如来と「等しい」と見なされる。
結論として、宗祖の言葉の使い分けは、信仰者の二重の自己認識を明らかにする。「弥勒に同じ」という言葉は、救済の絶対的な確信と法悦を示し、一方で「如来に等し」という言葉は、自己が依然として不浄な凡夫であるという深い内省を伴う。この二つの表現は、互いに補完し合い、他力信仰における高揚感と現実認識が共存する複雑で深遠な内的世界を構成している。
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1. 序論:言葉の解釈における重要性と問題提起
筆者は、思想を理解する上で言葉の分析がいかに重要であるかを強調する。言葉の意味は、使用者、時代、文化的背景によって変化するため、現代の概念で過去の言葉を解釈することは重大な誤解を招く危険性がある。
特に、宗教的体験のような深い内面世界を表現する際には、「意余りて言葉足らず」となり、文字だけではその真意を完全に汲み取ることは極めて困難である。筆者は、禅宗が「不立文字」「以心伝心」を説くのも、この言語表現の限界を警戒してのことではないかと指摘する。
このような言語解釈の困難さを踏まえた上で、筆者は親鸞聖人(宗祖)の著作に着目する。宗祖は、その深い宗教的体験を表現するにあたり、非常に鋭い洞察力と厳密な筆法(筆格)を用いていた。
宗祖の筆格の例:
経文を引用する際は「言」の字を使用。
論(論文)を引用する際は「曰」の字を使用。
釈(注釈書)を引用する際は「云」の字を使用。
この厳密さから、筆者は宗祖が信心の利益を示す同意語である「便同弥勒」と「与如来等」において、「同」と「等」という言葉を意図的に使い分けたのではないかという問いを立てる。本稿の目的は、この使い分けに隠された宗祖の特別な意図を探り、それによって真宗教義のどのような側面が明らかになるかを考察することにある。
2. 「同」と「等」の論理的区別
筆者は、宗祖の言葉の使い分けを分析する前提として、「同一性(同)」と「相等性(等)」という二つの概念を形式論理学的に厳密に区別する。
同一性(同)
定義: 「AはAなり」という判断で表され、全てのものはそれ自身と同一であることを示す。
性質: 構成的範疇(Constitutive Category)。これは対象を成り立たせる思考の根本的な要求であり、時間・空間・因果関係の中で一つの持続的な実在性を構成する。
特徴:
同一性は絶対的であり、程度の差はない(同一であるか、ないかの二者択一)。
完全に等しい二つのものであっても、決して同一ではない。例えば、寸分違わず作られた二つの球は「等しい」が「同じ」ではない。
例:一片の粘土は、どのような形に変えられても「同じ粘土」である。生物の細胞が新陳代謝で入れ替わっても、個体としての同一性は持続する。
相等性(等)
定義: 互いに区別される二つ以上の内容について下される比較判断。「AはBに等しい」という関係性を示す。
性質: 反省的範疇(Reflective Category)。これは二つの実在を比較する反省的な思考によって成立する知識であり、対象そのものの実在的関係を意味するものではない。
特徴:
比較対象となる二つの存在が前提となる。
無限の程度の差が存在する(より等しい、あまり等しくない、など)。
相等性の真理価値は、比較される表象内容(例えば「直径」や「重さ」)に対してのみ妥当し、それ以外の対象の全体的実在には及ばない。
両者の関係
両者はしばしば混同されるが、全く異なる範疇である。相等性が極限に達しても同一性にはならない。むしろ、同一性の基礎の上にのみ相等性が成立する。つまり、それぞれがそれ自身と同一である(AはA、BはB)という二つの独立した存在が確立されて初めて、両者を比較して「等しい」と判断することが可能になる。
3. 「便同弥勒」の解釈:同一性の適用
筆者は、「同」が「同一性」を意味するという論理的規定に基づき、「便同弥勒」の句を解釈する。
意味: 信心の人は、弥勒菩薩と同じである。これは、信心の人と弥勒が客観的に対立する二者として「等しい」のではなく、信心の人は即ち弥勒そのものであるという、より直接的で強い主張である。
弥勒の再定義: 宗祖の文脈における「弥勒」は、仏教史上の特定の人格としての意味合いが薄れ、「等正覚」(仏の一歩手前の位、因位の究極形態)という状態を人格的に表現したものと解釈される。
同一性の対象: したがって、「弥勒に同じ」とは、信心の人が弥勒という人格と同一化するのではなく、信心の人が住する「等正覚の位」という形式(状態)において同一であることを意味する。
信仰体験としての意義:
この表現は、救済されたという実感の切実な表明であり、「弥勒に等しい」という客観的な比較よりも、はるかに立体的で感動的な内面性を示す。
往相回向(浄土へ往くこと)と還相回向(浄土から還り衆生を救うこと)が別のプロセスではなく、信心において同時に領受されるという宗祖の深い理解は、「信心の人即弥勒菩薩」という自信から生まれると筆者は分析する。
この解釈によれば、「便同弥勒」という言葉は、信心獲得の瞬間に得られる救いの確かさと喜びを最大限に表現したものとなる。
4. 「与如来等」の解釈:相等性の適用
次に筆者は、「等」が「相等性」を意味するという規定に基づき、「与如来等」の句を分析する。
意味: 信心の人は、如来と等しい。これは、如来と信心の人という、明らかに異なる二つの実在を比較する判断である。
比較の根拠: 両者は実在的には全く異なる。
信心の人: 現実には煩悩にまみれた凡夫。「アサマシキ不淨造惡ノ身」(嘆かわしい、不浄で悪をなす身)。
如来: 完全な悟りを開いた存在。
相等性が成立する側面:
両者が「等しい」とされるのは、その表象内容においてである。すなわち、信心を得た人は「必ず仏になるべき身」となったが故に、その未来の可能性と救済の確実性において如来と等しいと見なされる。
これは、信心の徳について述べたものであり、現身のまま仏になるという「現身即仏」の理屈とは一線を画す。
信仰体験としての意義:
「如来に等し」という表現は、自己の罪深さ(凡夫)と、それを救う仏の大悲(如来)という対立関係を常に内包する。自己の罪の深さを痛感すればするほど、大悲の有難さが深まるという信仰のダイナミズムを示す。
これは、異なる個性(業苦)を持つ衆生が、念仏という一点において差別なく救われ、等しい覚りを得る(同証を獲得する)ことを示唆している。
「与如来等」は、現実の自己を直視しつつ、仏の願力によって与えられた救済の確実性を表明する、内省的な言葉であると言える。
5. 「便同弥勒」と「与如来等」の関係性と信仰構造
筆者は、二つの言葉が単なる同意語ではなく、信仰意識の内的構造を具体的に示す、相互補完的な関係にあると結論付ける。
論理的関係: 相等性は同一性を基礎として成立するという論理的規定が、ここでも当てはまる。
まず、信心の人が「等正覚」の位において弥勒と同じである(同一性)という基盤がある。
この基盤の上に立って初めて、因位にいる信心の人と、果位にある如来とを比較し、救済の確実性において等しい(相等性)と語ることができる。
信仰意識の内的構造:
1. 高揚(便同弥勒): 信の一念において、救済の事実が完全に現れる。「その心すでに浄土に居す」という、直接的で高揚した法悦の状態。
2. 内省(与如来等): しかし、その喜びは常に「アサマシキ不淨造惡ノ身」であるという自己への深い反省によって制約される。これにより、信仰は傲慢な「即身成仏」論に陥ることを防ぐ。
3. 弁証法的深化: 「弥勒に同じ」という高揚した確信が、「如来に等しい」という現実的な救済感を生む。そして、「如来に等しい」という自覚が、かえって如来とは等しくない自己の現実の姿を反省させ、浄土往生という究極の理想へと向かわせる。
このように、「便同弥勒」と「与如来等」は、高揚と内省、絶対的確信と現実認識という二つの側面が相互に作用しあう、具体的でダイナミックな信仰の世界を構成している。
6. 『御消息集』における論証の補強
筆者は最後に、高田専修寺所蔵の『御消息集』に見られる論争を引用し、自らの論証をさらに強化する。
背景: 当時、「信心の人が如来と等しい」という教えに対し、一部の人々が「それは自力の考え方であり、真言宗の即身成仏と同じだ」と批判していた。
蓮位の書状の分析: この批判に応える形で書かれた蓮位の書状には、筆者の主張を裏付ける重要な記述が含まれている。
1. 「弥勒トヒトシ(弥勒と等し)」という表現について:
蓮位は、弥勒を「自力修行」の人、信心の行者を「他力」の人として明確に対比している。
二つの異なるものを比較しているため、蓮位は「同じ(同)」ではなく、意図的に「等し(等)」という反省的範疇の言葉を用いている。
これは、比較対象を立てずに「位」の同一性を示す宗祖の「便同弥勒」とは表現が異なるが、言葉を論理的に使い分けている点で、筆者の主張を逆説的に補強する。
2. 「如来トヒトシ(如来と等し)」という表現について:
蓮位は「如来と等しい」理由を次のように説明する。
これは、煩悩具足の凡夫という実在が如来と等しいのではなく、凡夫が領受した信心(他力の光明、仏の智慧)が仏の智慧と同一であるから、結果として凡夫は如来と等しいと言える、という構造を示している。
ここでも、「同一性」を基礎として「相等性」が語られており、筆者の論理的分析と完全に一致する。
この『御消息集』の分析を通じて、宗祖の「同」と「等」の使い分けが、後代においてもその厳密な論理性が理解され、真宗教義の核心部分を説明するために用いられていたことが示される。筆者は、この二つの教語が示す特殊な意義こそ、即身成仏のような単なる理屈では到底到達できない、信心の最深の境地を明らかにするものであると結論付けている。
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