バイブル・エッセイ1225『愛された罪人』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父)
Автор: 片柳神父のチャンネル「道の途中で」
Загружено: 2025-10-24
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00:00 福音朗読
01:48 説教
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自分の正しさを誇るファリサイ人と、自分が罪人であることを認めて神に憐みを乞う徴税人。この二人のうち「義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない」とイエスが語る場面が読まれました。神の前に正しい者、神の子とされるにふさわしい者とは、自分が罪人であることを謙虚に認め、神に憐みを求める人。そのような人だけが、神のもとに近づき「高められる」とイエスは言うのです。
ファリサイ派の人の態度で、最も問題なのは、自分が罪人であることをまったく認めていないことでしょう。自分は正しい人間だと思い込むとき、わたしたちと神さまの関係は断ち切られます。なぜなら、自分は正しい人間だと主張することは、「自分は神さまに救ってもらう必要などない」と言っているに等しいからです。自分は正しい人間だと思い込むとき、隣人たちとの関係も断ち切られます。このファリサイ派の人のように、「わたしはあのような連中とは違う」と思って、隣人を見下し始めるからです。
トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』の中に「自分を誰か一人の上にでも置くなら、その害ははかりしれない」という言葉がありますが、自分は正しい人間で、あの人とは違うと考え始めるとき、わたしたちは、神さまとむすびつきも、隣人との結びつきも絶たれ、暗闇に放り出されてしまうのです。その暗闇を、神を恐れず、人を人とも思わない「傲慢の闇」と言ってもいいでしょう。傲慢に陥った人は、神の子としての正しい判断ができなくなり、神の道、人の道から外れて苦しむことになります。自分を誇り、自分は誰かより優れた人間だと思うなら、「その害ははかりしれない」のです。
では、わたしたち人間の誇りはどこにあるのでしょうか。わたしたちは、自分をつまらない罪人だと決めつけ、自分を責め続けなければならないのでしょうか。それも違うと思います。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マル2:17)とイエスが言っている通り、神さまは道から外れて苦しみ、神さまに助けを求める罪人を救ってくださるかただからです。わたしたちは、罪人ですが、同時に道を踏み外した神の子でもあり、神さまから愛されている存在なのです。わたしたちの誇りは、自分が「愛された罪人」だということにあると言ってよいでしょう。罪人であることを忘れて思いあがることなく、しかし、自分が神さまから愛された神の子であることに誇りを持って生きていく。それが、最もキリスト教徒らしい生き方なのです。
フランシスコ教皇はこのことを、「罪人であるわたしと主の関係、これこそ救いの生命線です」という言葉で表現されました。自分の弱さ、不完全さを忘れず、神さまに助けを求め続ける限り、神さまはわたしたちを救い続けてくださる。自分は正しい人間だと思い込み、神の助けなど必要ないと思うなら、神さまでさえそんなわたしたちを救うことができないということです。自分は罪人であること、しかし、同時に愛された神の子でもあることを忘れず、「愛された罪人」としての誇りをもって生きていくことができるように祈りましょう。
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