バイブル・エッセイ 1219『十字架による救い』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父)
Автор: 片柳神父のチャンネル「道の途中で」
Загружено: 2025-09-11
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00:00 福音朗読
01:12 説教
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十字架上での死を予見したイエスが、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とニコデモに語る場面が読まれました。旗竿の先につけられた青銅の蛇を見上げたものが命を得たのと同じように、十字架につけられたイエスを見上げる者は永遠の命を得るということでしょう。なぜ、イエスの十字架に、それほどの力があるのでしょうか。
この教会でもそうですが、カトリック教会では、祭壇の近く、教会に来るすべての人の目に留まるところに、十字架と、十字架上で苦しむイエスの像が飾られています。服をはぎ取られ、鞭で打たれて全身に傷を負い、手と足には釘を打たれたイエスの姿は、あまりにも悲惨で、思わず目をそむけたくなります。しかし、イエスのこの悲惨な姿の中にこそ、人類の救いがある。イエスの十字架を見上げる者は、命を救われ、再び立ち上がる力が与えられる。わたしたちは、そう信じているのです。
自分が強い立場にいるとき、お金や地位、名誉を手に入れて着飾り、自分の力を誇って思いあがった暮らしをしているときに、服をはぎ取られた、傷だらけのイエスの姿を見ても、あまり心に響かないかもしれません。しかし、傷だらけのイエスの姿を見て、深く心を動かされる人たちもいます。自分自身が身体的な暴力や言葉の暴力によって傷ついている人たち、信じていた仲間に裏切られ、一人ぼっちで苦しんでいる人たち、病気や高齢のためベッドから動くことができず、ベッドにはりつけられた状態の人たち、そのような人たちは、十字架につけられた傷だらけのイエスの姿を見て、ときに涙を流すのです。「この人なら、わたしの気持ちをわかってくれる。この苦しみを、わたしと一緒に担って背負っていてくれる」、そのように感じるからです。
十字架につけられたイエスは、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取りました。その事実も、わたしたちにとって大きな救いになります。なぜなら、それは、誰もが苦しい状況に置かれたとき、必ず感じる疑問だからです。「神さま、なぜわたしだけがこんな目に遭わなければならないのですか」と疑問を感じ、神に見捨てられたのではないかと思って苦しんでいる人は、十字架上のイエスの姿を見、その口から発せられた言葉を思い出すとき、「苦しんでいるのは自分だけではない。それどころか、神御自身が、わたしと一緒に苦しんでいてくださる」と気づきます。神さまが、それほどまでに自分を愛してくださっていることに気づいて救われるのです。
イエスの十字架について話し始めると、もうきりがないくらいたくさんのことがあります。しかし、わたしとしては、「なぜわたしだけこんな目に遭わなければならないんだ」とつぶやきたくなるほど苦しいとき、十字架を見上げて、「苦しいのは、自分だけではない。イエスが、わたしと一緒に苦しんでくださっている」と思えることに、何よりの救いを感じています。十字架を見上げるたびごとに、傷だらけのみじめな姿に込められたイエスの愛、神の愛を感じることができるように。神の愛に満たされて、永遠の命を生きることができるように、心を合わせて祈りましょう。
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