山口県柳井市と上関町の気になったスポットを巡る!
Автор: 神々旅行記
Загружено: 2025-10-18
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■伊勢大神宮
〒749-0102 山口県柳井市大畠
定かではありませんが、残存する初代伊勢の宮のようです。
伊勢大神宮は、琴石山の東側中腹の谷間にひっそりと隠れるように残存しています。
古村記(こそんき)、享保増補村記(きようほぞうほそんき)、玖珂郡志(くがぐんし)等の古記録に記載があります。
昔は寺院に姿を変えて残存して来たようです。
岩国藩最古の記録である古村記の記述には、古い位牌があって盗人にとられたと記載があります。
※神社の位を記した位牌?
「五色の御幣(ごへい)」には、主に以下の二つの意味や考え方があります。
1. 陰陽五行説に基づく考え(自然界と宇宙の要素)
神道や仏教・修験道など、古来の日本の信仰では、中国の**陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)**の影響を受けていることが多く、五色は自然や宇宙の構成要素、方角などを象徴します。
五色: 青(緑)・赤・黄・白・黒(紫)
象徴する要素: この五色は、木・火・土・金・水の五行、あるいは東西南北中央の五方角に対応しています。
この考えに基づき、五色の御幣は自然の姿、世界の調和、または五行がもたらす全ての願い(疫病退散、除災招福、五穀豊穣など)を感応成就させるという意味合いで用いられます。
2. 神霊の依り代・神への捧げ物
御幣(幣束)そのものの役割は、以下の通りです。
神霊が宿る依り代(よりしろ): 神様を招き、一時的にその神霊を宿らせるための道具。
神への捧げ物(幣帛/へいはく): 元々は神様に奉納する布帛(ふはく:布や絹)の代わりとして、紙を細長く切って幣串に挟んだもの。
お祓い具: 神主が振ることで、不浄を祓うための道具としても使われます(これは後代の習慣とされることもあります)。
五色を用いることで、単に捧げ物であるだけでなく、より強力で広範な神威やご利益を期待する意味が込められます。
補足:特別な五色幣
熊本県の幣立神宮(へいたてじんぐう)の「五色神祭」などでは、五色(赤・白・黄・黒・青)を世界の五つの人種に見立て、「人類の幸福、世界の平和を祈る儀式」として用いられる特別な意味を持つ場合もあります。
■稲荷山神社
〒742-0002 山口県柳井市山根1-1
ずらりと並んだ赤い鳥居が印象的な稲荷山神社は、柳井でも有名な桜の名所です。
周辺に植えられた桜の木は500本とも言われます。一斉に開花するとその一帯だけが桜色の雲のようになり、遠目からでも桜の見事さをうかがい知ることができます。
桜も老木になり、往時の勢いはなくなってきましたが、若木にはない練れた美しさを見せてくれます。
木々の隙間から見える瀬戸の海も、風情ある眺望です。
■平家神社(池の浦神社)
〒742-1353 山口県柳井市阿月池の浦55
安徳天皇が祀られている平家神社。享保11年(1726)社殿建立。
現在は池の浦神社と呼ばれている。
江戸時代この一帯の農家が開墾に入って耕地としたが、水が変色し
夜になると合戦のようなすさまじい叫び声が聞こえ五穀が全く
実らなかった。領主は安徳天皇を祀る平家神社を建立。
その後は叫び声は聞こえなくなり五穀も実るようになったと
いわれる。
■千葉稲荷大明神
〒742-1403 山口県熊毛郡上関町室津
千葉稲荷大明神には、かつて宇賀島水軍が築いた山城・千葉城(せんばじょう)がありました。
宇賀島水軍(うかしますいぐん)は、戦国時代に瀬戸内海で活動した海賊(水軍)衆です。特に毛利氏が台頭する以前の、大内氏や陶氏といった勢力と関係を持ちながら活動していました。
1. 概要と拠点
名称: 宇賀島水軍(うかしますいぐん)または宇賀島衆(うかしましゅう)
活動時期: 主に室町時代から戦国時代にかけて。
主な拠点:備後国(現在の広島県):尾道水道に浮かぶ宇賀島(後の岡島、現在は尾道本土と埋め立てで繋がっている)にあった岡島城を本拠地としていたとされます。
周防国(現在の山口県):周防大島諸島の**浮島(うかしま)**を拠点とする宇賀島衆も存在しました。
活動内容: 瀬戸内海の要衝で、航行する船から礼銭(通行料)や関料を徴収するなど、海の流通に関わる活動を行っていました。
2. 歴史と滅亡
宇賀島水軍の運命は、当時の大勢力である毛利氏の台頭と密接に関わっています。
陶氏への従属と厳島の戦い
天文20年(1551年)に大内氏の重臣である**陶隆房(後の陶晴賢)**が大内義隆に謀反を起こした(大寧寺の変)後、宇賀島水軍は陶氏に仕えます。
この頃、陶氏は瀬戸内海の有力な水軍である**能島村上氏(村上水軍)**と対立しており、宇賀島水軍は陶氏の海軍力の一部を担いました。
天文24年(1555年)の厳島の戦いでは、宇賀島衆の頭取である**宇賀島忠重(宇賀島十郎左衛門)**が陶氏の水軍大将を務めますが、毛利元就・小早川隆景に敗れ、忠重は戦死しました。
宇賀島水軍の滅亡
厳島の戦いでの敗北と、その直後に始まった毛利氏の周防侵攻(防長経略)により、周防国側の拠点であった浮島は一時的に無人島になるほど徹底的に掃討され、宇賀島水軍は滅亡しました。
備後国側の宇賀島(岡島城)も、厳島の戦いより少し前の天文23年(1554年)頃、毛利氏の三男である小早川隆景によって攻め滅ぼされたと見られています。その後、岡島城は因島村上氏の支城となりました。
宇賀島水軍は、瀬戸内海の覇権を巡る戦国大名の勢力争いの中で、有力な水軍であった村上水軍のライバル的存在として活躍しましたが、最終的に毛利氏の勢力拡大によって歴史から姿を消しました。
■白雲稲荷大明神
〒742-1403 山口県熊毛郡上関町室津
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