手を合わせる縁を、自ら閉ざさないで欲しい。―直葬について (ショート法話617)
Автор: YouTube仏教法話 北海道岩見沢市・幌向善光寺 ~北の寺からch~
Загружено: 2025-11-14
Просмотров: 157
北海道岩見沢市幌向 浄土宗西山禅林寺派「善光寺」 大久保瑞昭住職による短時間で聞けるショート法話です。 #仏教 #浄土宗 #西山派 #法話 #お経 #念仏 #北海道 #岩見沢 #幌向
#当・善光寺は、檀家さんより、年間、維持費として一万円、十夜法要への寄付金として五千円~をいただいております。
#当・善光寺では、他の多くの寺院と同様に、「離檀料(りだんりょう)」は必要ありません。
もうそろそろ「直葬」はやってみたものの、いろんな弊害があったということも、皆さんに知れ渡ってきているのかもしれませんね。
そのように、そうせざるを得ない場合は、それは、もう仕様がありません。
そして、そういうケースは、昔から、一定の割合で存在していて、その数は、大きく増えてはいない、ということなのです。
しかし、ここで考えてみたいのは、そういう状況にはならないのに、敢えて、そういう状況を希望する、という場合です。
それはつまり、「自分が死んだ後は、無になる。誰にも思い出してもらえなくなる。手を合わせてもらえなくなる」ということを希望する、ということですよね。
自分がもう死んでいく時に、「ここから先は、子や孫が居たとしても、彼らにも、お坊さんにも、誰にも手を合わせてもらえないように、私は死んでいくのだ。遺言でそうしてあるのだ。誰にも思い出してもらえないんだ。ああ、良かった」と思って死んでいくということですよね。
百歩譲って、そういう意思は、「自分の死後に手を合わせてもらおうと思うのは、名誉欲である。私はそういう欲を手放して、死んでいくのである。それでも、現世の人々を見守って行こうと思う」ということの表れだとします。
しかし、遺された私たちは、始終、「亡くなった人のこと」を思い出すことができるわけではないのですね。
どんなに親しく大切だった人であっても、時間と共に、その記憶は薄らいで行き、まして、「亡き人は今も私たちを見守ってくれている」ということは、自分で「意識」してないと、維持しづらいものです。
しかし、毎朝、お仏壇に向かい、手を合わせる時には、亡き人のことを、思い出しています。
その時に、たとえ、身の周りで色々な事が起こっても、「そうだよな。見守ってくれているんだよな。だから、自分は大丈夫なんだよな」と思い直すことができるのです。
もし、そのような時間がなければ、私は、「亡き人が見守っている」ということも、忘れているでしょうね。
そして、現世の「苦」に振り回されたままになっているでしょうね。
そういう、「苦」から、ふと、「大丈夫、見守っているよ」という「気付き」を与えてくれているのが、そういった亡き人々の存在なのです。
亡き人々が、「見守っているよ」ということを「知る」ことによって、私は、「今のままで大丈夫だよ」という「正気」に戻ることができているのですね。
いわば、亡き人が仏と成って見守って下さっており、そのことで、私を救い摂って下さっているのです。そういう「はたらき」「縁」として、関わり続けて下さっているのです。
そうして、私もまた、この世の誰かを、「守っているよ」という存在「仏」に成っていく。
それはなにも、直系子孫だけにかぎりませんよね。
友人や親せきやご縁のあった方々、お寺が在る方は、菩提寺の住職さんとか、そういった方々が、私たちを見守り、そして、私たちもその「見守る」一人になって行くのですね。
Twitterはじめました https://twitter.com/hokkaidozenkoji?s=06
善光寺のブログ http://blog.livedoor.jp/zenkojinamu/
Доступные форматы для скачивания:
Скачать видео mp4
-
Информация по загрузке: